ふざけて繋いだ手の反応



 初秋の風が制服のスカートを揺らして通り過ぎた。
 その風が運んで来たのだろうか、ほのかに甘い香りがふわりと咲月(さつき)の鼻孔をくすぐった。
 衣替えの季節に漂う、橙色の花の香り。
 小さな可愛らしい花々から漂う芳香は、なぜか昔から咲月に胸を締め付けるような懐かしさと予感めいた不思議な感覚をもたらす。秋の陽射しのように優しく漂うその匂いが、咲月はとても好きだった。
 香りに誘われるように足を止めた咲月は、今年初めてとなる花の姿を求めて辺りを見回した。
 閑静な住宅街を通る道の両側には生垣や塀が続いており、枝を伸ばした木々がその上に顔をのぞかせている。夕暮れ時と呼ぶにはやや早い時刻。日中より黄味を増した太陽が温かな光を投げかけている先に、お目当ての色は見当たらない。
 気のせいだったのだろうか。咲月は鼻孔に残る香りを求めて小さな呼吸をくり返した。けれど、乾いた秋の空気は素っ気ないほど無味無臭で、露ほどの残り香も感じられない。
 それでも納得のいかない咲月は、更に、立ち止まった場所から左手に伸びる細い路地の奥をのぞき込もうとした。
 と、その瞬間、
「咲月?」
 訝しげな直哉(なおや)の声が咲月を我に返らせた。
 今日は同じ高校に通う幼馴染みの直哉と偶然同じ電車に乗り合わせ、共に家路を辿っているところだったのだ。
 咲月の井川家と直哉の北村家は通りを挟んだ向かいに位置しており、同い年で仲の良かった二人は小学校を卒業するまで毎日のように一緒に帰ったものだった。直哉の家庭は共働きだったので、そのまま咲月の家に上がり込み、夕食を共にするのが平日の日課になっていたのだ。
 この習慣は二人が中学生になっても当然のように続いた。さすがに誘い合って帰ることはなくなったけれど、部活帰りの二人は下校が一緒になることが多かったし、直哉一人でも気軽に寄れる雰囲気が井川家にはあった。元々両家の母親同士がとても仲が良かったこともあったが、世話好きな咲月の母親にとって、直哉は息子も同然の存在だったのだろう。
 けれど、半年前に高校に入学して以来、直哉の足はだんだんと井川家から遠退いた。外で食べて来る機会が増えたから、というのが理由の大部分を占めているらしいが、真っ直ぐに帰宅した時でも咲月や咲月の母が誘わない限り、直哉が自分から井川家に顔を出すことはなくなっていた。咲月はその理由を成長したことへの自覚や井川家に対する遠慮が芽生えたからではないかと感じている。
 だからといって二人の仲が疎遠になることはなく、同じ高校に在籍していることもあり、朝はほぼ毎日、下校時は偶然出くわした時はいつも、当たり前のように並んで歩いているのだった。
 四、五歩進んでから咲月が隣にいないことに気付いたのだろう、直哉は軽く上半身を捻り肩越しに咲月を振り返っていた。
「……あ、ごめん」
 そんな直哉に慌てて駆け寄り、咲月はぼんやりとしていた自分を恥じるように愛想笑いを浮かべた。花の香りに気を取られてすっかり失念していたけれど、直哉と会話の途中だったのだ。
「どうしたんだよ、ぼうっとしちゃって。何か気になる物でもあったのか?」
「えっと……、ううん、何でもない。それより何の話だったっけ?」
 一瞬、直哉に花の香りのことを訊いてみようかと思ったけれど、結局咲月はそれを口にしなかった。肝心の匂いは掻き消えてしまっているし、自分の嗅覚にも自信を持てなかったのだ。
 直哉も言い淀んだ咲月を怪訝そうに見つめただけで、それ以上問いただそうとはしなかったので、咲月はすべてを吹っ切るようににこりと笑って話題を変えた。
 そして、再び直哉と並んで歩き出しながら、ほんのちょっと前の記憶を探ってみる。
「……あ、そっか。確かうちのクラスの中村さんの話、だったよね? 彼女がどうかした?」
 咲月の記憶では、直哉に『咲月のクラスに中村真奈美っているだろう?』と尋ねられたところで会話が途切れていたはずだ。
 咲月はこの後の展開を予測することもなく、まったく無防備な状態で直哉の返事を待った。
「付き合うことにした」
 だから、内容に反してやたらと単調に響いた声に、わずかな間咲月の思考は完全に停止した。
「……はあっ!? 付き合うって、中村さんと?」
「そう言っただろう」
 我に返り、あえぐように声を絞り出した咲月とは対照的に、直哉の態度はどこまでも無感動だ。
 棒立ちになった咲月に合わせて立ち止まりながら、ぽかんと口を開いたままの咲月の顔に素っ気ない眼差しを注いでいる。
「だっ、だけど、B組の彼女と別れたのって先週だったよね?」
「ああ、そうだったかな」
「それなのに、もう中村さんと?」
「だって告白されたから」
「だからって……」
 その場にしゃがみ込みたいような虚脱感に襲われ、咲月はそれ以上直哉を問い詰めるのを止めた。
 実は、この手の報告を聞くのはこの半年間で四回目だったのだ。初めての時こそショックを受けたものの、回を重ねると驚きよりも呆れる気持ちの方が大きくなってくる。
 咲月は恨めしげな気持ちで長身の直哉を見上げた。中一の頃までは咲月の方が背が高かったはずなのに、いつの間にか追い付かれ、追い越されていた。しかも咲月を追い越してからの直哉の成長速度は驚くべきものがあり、今では頭一つ半近く差を付けられている。
 だから、だろうか。高校に入学してからの直哉はやたらと女の子に人気がある。
 生来の朗らかな性格と割合いに整った顔立ち、これだけでもモテる要素は充分あったはずなのに、中学時代の直哉には友達以上の仲になった女の子はいなかった。
 それもそのはず、中学の同級生はほとんどが小学校からの持ち上がりだったので、誰もが幼馴染みの咲月の存在を知っていたのだ。男友達よりも幼馴染みを優先する男、しかもその幼馴染みの家に入り浸り、夕食まで取っている男に告白する勇気のある女の子はいなかったのかもしれない。
 そんなこととは知らない咲月は、高校に入学してからの直哉の人気振りに内心驚愕していた。そしてそれ以上に困惑していた。なぜなら、直哉がとんでもないプレイボーイに変貌してしまったからだ。
(だからって、何もあたしのクラスの女の子と付き合うことないじゃない!)
 呑み込んだ言葉を胸の内でつぶやくと、ふつふつと苛立ちが込み上げてくる。
 今まで直哉が付き合った女の子は三人。そしてどの子とも一ヶ月程度で別れている。一番長かったのは夏休み前に付き合いだした三年の先輩で、彼女との関係も夏休みの終了と同時に終焉を迎えていた。
 逆に一番短かったのが先週別れたばかりのB組の彼女で、なんと交際期間はたったの九日間だった。
 それなのに、今度はよりによって咲月のクラスメイトだ。咲月と中村真奈美は特に仲が良いわけではないが、またしても短期間で別れるようなことになったら、しかもその理由が前回と同じだったら、間違いなく怒りの矛先は咲月に向かうだろう。クラス替えまではまだ半年近くある。できるだけ平穏な日常を過ごしたい咲月にとって、この話は迷惑極まりないものだった。
 我知らず咲月の視線は険悪なものになっていたのだろう、わずかにたじろいだ直哉が怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「何だよ、何か不都合なことでもあるのか?」
「別に不都合ってわけじゃないけど」
 言葉とは裏腹に、咲月の声も視線も刺々しい。
「じゃあどうしてそんなに不機嫌なんだ? あ、もしかして妬いてるとか?」
「バカッ、そんなわけないでしょう! あたしはただ……」
「ただ?」
 そう促して直哉がニヤリと笑った瞬間、咲月は自分が単純な誘導尋問に引っ掛かったことを知った。はぁ、と一つ大きな溜め息をもらし、拗ねたように直哉を睨む。
「あのね、一つお願いがあるの。もしも中村さんにお弁当のことを言われたら、今度はちゃんと彼女の意見を聞き入れてあげて」
「それって、例の『幼馴染みの彼女が作ったお弁当なんか食べるのは止めて!』ってやつか?」
 咲月は黙って頷いた。
 一週間前に直哉がB組の彼女――髪の長い、黒川さんという女の子――と別れた原因がこれだったらしい。実は直哉は井川家で夕飯を食べるだけではなく、給食のなくなった中学からはお昼の弁当まで世話になっていたのだ。高校に入学してからもこの弁当の習慣だけは相変わらず続いており、しかもその弁当が咲月の手作りだったため、二週間ちょっと前に付き合いだしたばかりの三人目の彼女に咎められてしまったようだ。
 料理が趣味の咲月にとっては長年の習慣を続けているだけだったし、自分の分を作るついででもあったので特に深い意味はなかったのだが、やはり自分の彼氏が幼馴染みとはいえ他の女の作った弁当を食べているというのは、面白くないことだったのだろう。
「……あたしも無神経だったなって反省してるの。だから、もし中村さんも同じことを言うようだったら、あたし直哉のお弁当を作るの止めるよ。やっぱり自分の彼氏が他の女の子が作ったお弁当を食べてるなんて……」
 何となく気まずくて咲月はうつむいたまま一気にまくし立て、更に言い募ろうとしたのだが、
「嫌だね」
 直哉はたった一言で咲月の台詞を一刀両断にした。
 驚いて顔を上げた咲月に強い眼差しを向け、直哉は不機嫌さを隠しもせず口を開いた。
「彼女に文句を言われたくらいで、どうして俺が咲月の弁当を我慢しなくちゃいけないんだよ? 咲月の料理には慣れてるし、コンビニ弁当なんかよりずっと旨いじゃん。それに、もう三年以上食い続けてるんだぜ、今更止められるわけないだろう。大体、俺が自分の食いたい物を食って何が悪いっていうんだ? 嫌なら別れてくれたって構わないぜ。……っていうか、俺が食ってる物に文句をつけるような女なんて、そもそもこっちから願い下げだけどな」
 思い掛けない直哉の言葉に咲月は絶句した。
 やたらと威張りくさった態度だが、この言い草では"オレ様"というよりただの"お子様"ではないか。高校生の、しかも、これまで三人の女性と付き合った男の台詞とはとても思えない。
 果たして直哉は恋愛というものをちゃんと理解しているのだろうか、と咲月は怪しんだ。一体どういうつもりでこれまで三人の女の子たちと付き合って来たのだろう。そもそも、簡単にくっついたり別れたりし過ぎだ。まったく真剣味が感じられない。これでは近頃すっかり定着してしまった"軟派な男"というレッテルは、容易く剥がせそうもない。
 そんな直哉の悪評を咲月は内心苦々しく思っていた。何しろ皆が"遊び人で軽薄な男"という色眼鏡で見ている男の実体は、"恋愛の何たるかも知らない単なるお子様"なのだから。噂ばかりが一人歩きして、ただの仔猫をライオンに見せているに過ぎないのだ。直哉の軽々しい行動がそんな噂の元凶だと思うと、呆れるのを通り越して腹立たしくなってくる。
 当の直哉は咲月の心境も知らず、眼が合うとニヤリと唇を歪ませた。悪びれた様子もない、強気な微笑みだった。これではどんな説得も聞き入れられそうもない。咲月はガックリと肩を落とし、溜め息をもらした。
 昔から直哉は変なところで頑固なのだ。特に、咲月との仲に関する事柄についてその傾向が強い気がする。
 例えば、小学三年生の頃に二人が名前で呼び合っていることを、クラスメイトに冷やかされたことがあった。咲月はあまりの気恥ずかしさに、数日間、直哉自身まで避けてしまったのだが、直哉はそんな咲月を一喝して当然のように名前で呼び続けた。そして、どんなにはやし立てられても直哉が屈することはなかったのだ。
 結局、咲月もそんな直哉に倣(なら)って冷やかしを受け流したので、最後には周囲の方が飽きてしまったのだろう、二人の呼び方をからかう者は誰もいなくなった。
 今回もきっと同じことになる、と咲月は予感した。
 直哉は咲月の弁当を止める気はさらさらないのだから、咲月が妥協するしかないだろう。どんなに直哉の彼女たちに咎められても、平然と弁当を作り続けるのだ。そうすれば、そのうちきっと"幼馴染みの弁当を食べててもオッケー"と思ってくれる寛大な女の子だけが、直哉に告白するようになるかもしれない。そうなるまでに、咲月に対する風当たりがどれだけ強いものになるかを考えただけで気が滅入るのだが。
(少しはあたしの立場ってものを思いやってくれてもいいじゃない!)
 声に出すだけ無駄だと分かっているので、咲月は胸の奥で憤慨した。
 しかし、やはりそれだけでは腹の虫がおさまらず、せめて睨み付けてやろうと顔を上げた瞬間、
「あっくーん、早く早く!」
 不意に響いた少女の声が咲月の意識を引き付けた。
 次いで、背後からパタパタという軽やかな足音と甲高い子どもの笑い声が迫ってくる。
 思わず振り返ると、咲月の横を髪を二つに結んだ女の子が駆け抜けていくところだった。小学校の低学年くらいだろうか。女の子の動きに合わせて長い髪が弾むように上下している。
「待ってよー、みさきちゃーん!」
 その女の子を泣きそうな顔をした男の子が追いかけて来た。息も絶え絶えといった様子で咲月の横を走り抜けていく。今にも足がもつれてしまいそうで、見る者をハラハラさせる走りだった。
 先を行く女の子の方がほんの少し背が高く、大人びているような感じがする。姉弟だろうか、と咲月は想像した。
(それとも、幼馴染みかな?)
 男の子が"みさきちゃん"と名前で女の子を呼んだことを考えると、こちらの方が可能性が高そうだ。
 その考えは瞬く間に咲月の尖った心を和ませた。自分が置かれている状況も忘れ、自然と口元がほころんでくる。咲月の脳裏には幼い頃の自分たちの姿がよみがえっていたのだ。
 咲月も直哉も一人っ子同士だったけれど、姐御肌で快活だった咲月に対し直哉は病弱で小柄な子どもだった。いつでも咲月の後を付いて回り、少しでも置いて行かれると大泣きして手が付けられなくなる。傍から見ると友達というより本当の姉弟のような二人だった。
 ふと隣を見ると、直哉も子どもたちの姿を追っていた。その唇に薄っすらと笑みを浮かべているように見えるのは気のせいだろうか。それとも、咲月と同じく二人の姿に昔の思い出を重ねているのだろうか。
 その直哉がハッと小さく息を呑んだ。
 直後響いた、ズザッと何かが擦れたような音。
 反射的に視線を戻した咲月も「あっ」と声を上げた。七、八メートルほど先で男の子が転んでいたのだ。
「あっちゃー、派手に転んだな。あれは痛いぞ……」
 眉間に皺を寄せ直哉がつぶやく。
 と、その声に呼応するかのように男の子が激しく泣き出した。
「感心してる場合じゃないでしょ!」
 のんきな直哉を叱咤(しった)し、咲月は焦って駆け出した。
 刹那、腕をつかまれぐいっと引き戻されてしまう。
「ちょっ、何するの!? 離してよ!!」
「いいから」
 咲月に睨まれても直哉は腕をつかむ力を緩めない。
「良くないでしょ! あの子、泣いてるじゃない」
「いいから、ほら、見てみろよ」
 焦る咲月をなだめるように直哉は顎をしゃくって前方を示した。
 渋々ながら直哉に向けていた視線を戻すと、先を走っていた女の子が慌てた様子で駆け戻って来るところだった。泣き声で男の子が転んだことに気付いたのだろう。咲月の横を通り過ぎた時よりも必死な形相で、転がるように走って来る。
「大丈夫だよ、ちゃんとあの子が付いてるだろう?」
「でも、怪我してるかもしれないし……」
 男の子の元へ駆け付けた女の子はひざまずき、倒れたままの男の子の顔をのぞき込んだ。女の子の姿を認めてほっとしたのか、周囲に響き渡っていた泣き声がほんの少し小さくなる。
「まったく、咲月は心配性だな。だけどさ、駄目なんだよ、咲月じゃ」
 直哉は子どもたちの姿を見つめたまま自嘲気味につぶやいた。
 咄嗟に反論しようとした咲月は、けれど、軽く眉根を寄せただけで開きかけた口を閉じてしまった。言葉とは裏腹に、直哉は自分自身を揶揄しているように聞こえて怒るに怒れなかったのだ。困惑する咲月の頭を軽くポンと叩き、直哉が続ける。
「あの女の子じゃなくっちゃ駄目なんだ。咲月でも他の誰かでもない、あいつがそばにいて欲しいのは、あの女の子だけなんだから」
 そう言って直哉は笑った。やけに優しげな微笑みだった。
 そんな直哉を目の当たりにした途端、咲月の胸の奥で何かが小さく跳ねた。
 訳の分からない自分の反応に咲月は酷く後ろめたいものを感じ、波立ちそうになる気持ちを捻じ伏せて、引き剥がすように視線を子どもたちに向けた。
 すると、いつの間にか立ち上がっていた女の子が、未だに泣きべそをかいている男の子を助け起こしているところだった。両手で腕をつかんで男の子を立ち上がらせ、心配そうに顔をのぞき込んでいる。
 男の子は相変わらず泣きじゃくっているものの、しっかりと両足で立っているところをみると、大した怪我はしていないらしい。
 目の前の光景を半分上の空で見つめていた咲月は、その事実に気付きホッと胸を撫で下ろした。
 と、同時に自分の慌て振りを思い出し、恥ずかしいような、忌々しいような、複雑な気分に苛まれて、八つ当たりだと分かっていても直哉に当てこすりの一つも言ってやりたくなってくる。
 そこで思わず、
「ふうん、直哉ってばあの男の子の気持ちが良く分かるんだね。"経験者は語る"ってやつ?」
 ちょっぴり意地悪な気分で直哉をからかったのだが。
「そうだよ」
 真顔であっさりと肯定され、咲月は拍子抜けた。
 直哉はそんな咲月の内心も知らず、子どもたちを見つめたまま懐かしそうな笑みを浮かべた。
「俺さ、小さい頃、咲月に置いて行かれるのが一番怖かったんだ。どうしてだろうな、両親にほったらかされるのは全然平気だったのに、咲月と離れるのは凄く不安だった」
 咲月の脳裏に泣きながら追いかけて来る直哉の姿が浮かぶ。体格差が歴然だったあの頃、本気で走る咲月に直哉が追い付けるわけもなく、手加減してやるのが常だった。けれど、子ども特有の残酷さで、咲月はわざと直哉が追い付けないようなスピードで逃げることがあった。そしてある程度の距離ができたところで立ち止まり、必死で追いかけてくる直哉を待つのだ。
「あいつが求めていたのは、あの女の子ただ一人だよ。咲月や他の誰かが助けたんじゃ駄目なんだ。それじゃあいつは不安なだけで、もっと激しく泣いたと思うよ。あんな時、俺だったら絶対咲月に戻って来て欲しいし、あいつだってきっとそうに決まってる」
 自信満々で言い切り、直哉は揺るぎない眼差しを咲月に向けた。
 相手は何の面識もない男の子だというのに、直哉のこの確信は一体どこから来るのだろう。咲月は内心舌を巻いた。
 その裏で、何かが引っ掛かったような妙な違和感を覚え、そわそわと落ち着かない気分が湧いてくる。
 直哉の言葉によって引き出された記憶のどこか一部分が、頭の中で小さな閃光を放ったような気がする。それなのに、改めて探ってみると欠片一つ残っていない。
 ただ、見えそうで見えない、つかめそうでつかめない"もどかしさ"だけが胸に渦巻き、気持ちの悪さばかりが募っていく。
 考えれば考えるほど答えが離れていきそうな気がして、咲月はとうとう追い掛けるのを諦めた。
 軽く頭を振って残滓(ざんし)を払い除け、気を取り直すように子どもたちに眼を向ける。
 男の子を助け起こした女の子は、今度はかいがいしく汚れてしまった服を叩(はた)いてやっていた。されるがままになっている男の子は、唇を噛みしめ、泣き止もうと懸命な様子だ。けれど、勢い付いた涙は簡単には止まらず、ぽろぽろと頬を伝い落ちていく。
 子どもたちの様子をぼんやりと眺めながら、咲月は気持ちを落ち着けようとこっそり深呼吸した。
 このまま直哉のペースに流されるのは面白くない。
 コクリと唾を呑み込み、咲月は強気な微笑みを浮かべた。
「直哉がそうだったからって、あの子まで同じとは限らないでしょう? どんな根拠があるっていうのよ」
 淀みなく憎まれ口が紡がれる。
 いつもの咲月らしいお姉さんぶった口調。直哉に向けた揶揄と挑発が混ざったような眼差し。そこには一瞬前までの不安定な心情など少しも滲み出ていない。
 むしろ、それまで雄弁を振るっていたはずの直哉の方が、バツが悪そうに視線をさ迷わせた。
「根拠って言われてもなぁ。うーん、直感?」
「何それ、適当なんだから……」
 思わず苦笑をもらした咲月につられるように、直哉も照れ笑いを浮かべる。
 二人の視線が絡んだ途端、なぜか可笑しさが込み上げ、咲月はくすくすと小刻みに肩を震わせた。そんな咲月をからかうように肘で小突いた直哉も、堪え切れないといった様子で小さくふき出してしまう。
 子どもたちに気付かれないよう苦心しながら、二人はお互いの顔を見合わせて押し殺した笑い声をもらし続けた。特に笑う理由などないのに、お互いがつられ笑いをくり返しているのだ。
 と、前方に眼をやった直哉が笑いを噛み殺しながら「見ろよ」と咲月の肩を叩いた。
 言われるままに顔を向けた咲月は、目の前に繰り広げられている光景に笑いを止め、再びゆっくりと微笑んだ。今までのくすくす笑いとはまったく違う種類の穏やかな笑みが広がっていく。
 咲月と直哉が見守る中、ハンカチで男の子の涙を拭っていた女の子は、いつまでも止まることのない涙に痺れを切らしたかのように、不意に肩をすくめた。その瞳には、苛立ちというよりむしろ何かを企む悪戯っ子のような輝きが宿っているように見える。
 次の瞬間、女の子は男の子に向かってパッと片手を差し出した。
 突然手を突き出された男の子はビクッと肩を揺らし、驚いたように女の子の手のひらを見つめた。半開きの口と、キョトンと見開かれた瞳が男の子の当惑を物語っている。どうやらびっくりした拍子に涙まで止まってしまったらしい。
 男の子は恐る恐るという感じで女の子の顔を見上げた。
 すると、そこには大輪の花のような笑顔が待ち受けていた。
「行こうよ、あっくん」
 小さな手を振って女の子が促す。その動作で男の子はやっと意図を察したようだ。ぽかんと開かれていた唇が、徐々に微笑みの形へと変化する。
「うん!」
 元気に答え、男の子が差し出された女の子の手をしっかりと握る。
 手を繋いだ二人の子どもは、お互いの顔を見つめて嬉しそうに笑い合った。見守っている咲月まで心が温かくなってくるような笑顔だった。
 二人は手を繋いだまま咲月たちに背を向け、今度は仲良く並んで歩き出した。
 夕刻間際の黄金色した陽射しがそんな二人に降りそそぎ、艶やかな黒髪に光の輪を浮かび上がらせる。咲月にはその眺めがとても愛しいものに思えた。まるで一枚の絵のような光景。どこか懐かしく、ちょっぴり切なさを含んだ、セピア色した写真のような。
「あの子たち、おばあちゃんの店に行くのかな?」
 遠ざかって行く背中を見つめながら、咲月は独り言のようにつぶやいた。
「そうだろうな」
 直哉が律儀にうなずく。
 "おばあちゃんの店"というのは老婆が経営している駄菓子屋のことだ。店主の老婆は咲月たちが幼い頃には既に"おばあちゃん"の姿だった上に、今でも見た目が変らない。直哉がこっそり"お化けババァの店"と呼んでいることを咲月は知っている。
 次の十字路を左に曲がると老婆の駄菓子屋があり、その店の前を通り過ぎて五分ほど進むと咲月と直哉の家があるのだ。
「懐かしいなぁ。あたしたちも昔は毎日買いに行ったよね」
「店の前は今でも毎日通ってるけどな」
「そうだけど、中にはもう何年も入ってないよ?」
「そっか? 俺は中学を卒業するまで買い食いしてたぜ」
 あはは、と笑いながら二人はどちらからともなく歩き始めた。十字路を曲がって見えなくなった子どもたちを追いかけるように歩を進める。
 秋の陽は徐々に高度を下げ、黄色にほんのちょっと赤をたらしたような色合いになってきた。衣替えしたばかりの冬服のスカートをひんやりとした風が揺らす。
 夕刻前の住宅街は穏やかな静けさに包まれており、楽しげな咲月と直哉の笑い声をさざ波のように反響させていた。

「あのさ、咲月」
 十字路まであとわずかという所で、直哉が遠慮がちに咲月を呼び止めた。
 何気なく足を止めた咲月は、やけに真面目な顔をした直哉と眼が合い、訝しげに首を傾げた。
「……なに?」
「あのさ、さっきの話だけど」
 ぶっきらぼうにそれだけ言うと、直哉は下を向いて爪先で地面を蹴った。二度、三度と同じ動作をくり返すだけで、一向に話を続ける様子がない。直哉にしては珍しく歯切れの悪い物言いだ。咲月は嫌な予感を覚え、身構えた。
「さっきの話って?」
「うん、だから、あの、さっきの……弁当の話だけど、さ」
 咲月は「ああ」と小さく頷いた。子どもたちの登場で立ち消えた形になっていたけれど、あの話なら我が侭とも取れる直哉の発言で結論付けられていたはずだ。今更蒸し返すほどのことは無いように思える。
 咲月の視線を避けるように地面を蹴り続けていた直哉が、何かを決心したように顔を上げた。自分を奮い立たせるようにごくりと唾を呑み、泳がせていた視線を咲月に向ける。
「その、ちょっと気になってたんだけど、咲月さ、もしかして俺の弁当を作るのが面倒になったのか? それで遠回しにあんなことを言ったとか?」
「は?」
 素っ頓狂な声を上げた咲月を咎めるように直哉が眉をひそめる。
「いや、だからさ、俺は当たり前のように何年間も咲月に弁当を作らせてたけど、もしかしてそれが咲月にとっては負担だったのかなと思ったんだよ」
「それであたしが、中村さんに遠慮する振りして面倒ごとから逃げようとしたって?」
「うん」
 直哉は神妙な顔で頷いた。
 咲月の返事を待っている直哉は、気がかりを口に出せたことで清々しているようにも見える。けれど、咲月は直哉の瞳の奥にチラつくかすかな不安を見逃さなかった。この幼馴染みは大概において無神経なくせに、意外と繊細な一面も持ち合わせていたりするのだ。
 直哉のとんでもなく的外れな発言に脱力した咲月は、ほんの少し悪戯心が疼き、答えを焦らしてやろうかと考えた。しかし、仔犬のように頼りなげな直哉の様子に良心が咎め、その考えをあっさり放棄してしまう。
「バカね」
 相手を貶(おとし)めるはずの言葉が、やけに優しげな響きを伴って発せられる。
 細められた咲月の瞳は、出来の悪い我が子を見つめる母親のような温もりを宿していた。
「バカね、そんなわけないでしょう」
 もう一度ゆっくりとくり返し、咲月は直哉に真っ直ぐな眼差しを向けた。
「直哉のお弁当作りを面倒だと思ったことは一度もないよ」
「ホントか?」
 咲月がしっかりとうなずくと、みるみるうちに直哉の強張った表情が崩れていった。
「そっか、良かった。それならいいや。これからも弁当よろしくな、咲月!」
「もうっ、調子いいんだから……」
 先程までの深刻さとは打って変わり、無邪気な笑みを浮かべる直哉を、咲月は半分呆れた気持ちで見つめた。
 残る半分は直哉を可愛いと思う気持ちや、憎めない、かなわない、といった思いがない交ぜになったものだ。いとおしい、という表現が一番しっくりくるかもしれない。それは恋とは少し違う、姉が弟を慈しむような類のものだけれど。
 ふと、嬉しげに微笑む直哉の顔に、さっきの男の子の顔が重なった。
 差し出された手の意味を悟った時の嬉しそうな笑顔。それはまるで雲間から光がパァッと射し込んだような笑顔だった。上気した頬、輝く瞳、すべてが男の子の歓喜を物語っていた。
 つい先程、直哉は『咲月に置いて行かれるのが一番怖かった』と語った。それは過去の話だと思っていたけれど、心底嬉しそうに笑う直哉の様子を見ていると、今でも有効なのかもしれないと思えてくる。
 直哉の"幼馴染み至上主義"は今に始まったことではない。物心ついた頃からずっと咲月を特別扱いし、何よりも優先させてくれた。
 さすがに恋人ができたらそうもいかなくなるだろうと思っていたのだが、依然として直哉の一番は幼馴染みの咲月のままなのだ。
 咲月はそれをほんの少しくすぐったく思っていたけれど、決して不快ではなかった。言葉では『彼女を大切にしなさいよ』とたしなめることはあっても、心の奥底では密かに安堵している部分がある。直哉と付き合っている女の子たちの気持ちを思うと、そんな自分が卑怯な偽善者に思えて自責の念にかられることもあった。それでも、咲月は直哉の特別でいられることが嬉しかったのだ。
 それも当然だろう。直哉のように言葉や態度で表すことは稀(まれ)だが、咲月にとっても直哉は特別な存在なのだから。
 幼馴染みの直哉。物心つく前から一緒に育ち、家族同然で、親友であり、ライバルでもある複雑な関係。
(あ、……そっか。そういうことだったんだ)
 唐突に、咲月は先程の"もどかしさ"の正体に思い至った。
 直哉の台詞により引き出された記憶の中の自分と、今現在の自分。両者には十年近い隔たりがあるのに、共通する"無意識の想い"があったのだ。それは、咲月自身が見て見ぬ振りを続けてきた後ろ暗い感情だった。
 幼い頃、わざと直哉が追い付けないようなスピードで逃げた咲月。ある程度距離ができたところで立ち止まり、直哉が追いかけてくるのを待った。それはちょっとした悪戯だったけれど、別の一面もあったのだ。
 咲月は無意識に直哉を試していた。どんなに意地悪をしても必死で自分を追いかけて来る直哉。いつでも、何度でも、直哉が自分を追いかけてくれるか確認したかったのかもしれない。
 荒い呼吸で直哉を待つ間、咲月の胸を占めていたのは優越感にも似た感情だった。直哉の泣きそうな顔を見るとかすかに胸が痛んだけれど、それよりも"直哉は絶対に追いかけて来てくれる"という喜びの方がずっと大きかった。まるで麻薬のような陶酔感。
(あたしって進歩ない)
 そしてその優越感は高校生になった今でも形を変えて存在し続けていたのだ。
『嫌だね』の一言で、咲月の弁当を優先してくれた直哉。あの時、自分ではあまり認めたくないけれど、嬉しくなかったと言ったら嘘になる。
 もちろん、咲月は本気で自分の無神経さを反省していた。新しい彼女に咎められたら弁当作りを止める、と言った言葉に嘘はない。
 それでも、もしも直哉が『分かった、そうするよ』と答えていたら、咲月はどう思っただろう。激しいショックを受けなかっただろうか。
 高校生になってから頻繁に彼女を取り替える直哉に呆れていたのは本当だ。けれどその反面、変ることなく直哉の隣にいられる幼馴染みという存在に、かすかな優越感を抱いていたのもまた事実なのだ。そんなことを思ってはいけない、感じてはいけないと自分にブレーキをかけてみても、滲み出てくる想いを消せはしない。
 自分は直哉にとって特別な存在だ。
 そう思うだけで、いつでも咲月の胸には喜びの感情がじんわりと広がった。
 けれど、すべては子どもじみた独占欲のなせるわざだったのだ。慣れ親しんだ直哉に対する愛着が、自分の執着心を刺激しているに過ぎない。反省の意味を込めて、咲月はそう自分を納得させた。
(これじゃ直哉をからかえないかな)
 外見ばかりが成長して、中身が伴っていないのは咲月も同じだったのだ。結局、咲月も直哉も手を繋いで駆け回っていたあの頃から何一つ変っていないということか。
 不意に、笑いたいほど心が軽くなった。
 自分ではまったく気にしていないつもりだったのに、直哉の四回目の"彼女ができた"報告が知らず知らずのうちに咲月の心にかすかな影を落としていたらしい。
 自分の子どもっぽい独占欲に影響されていたなんて、考えてみれば滑稽な話だ。
 羞恥心と自嘲の念が混ざり合った想いが込み上げ、咲月は我知らず頬を上気させた。
 誰かに心の中をのぞき込まれたわけでもないのにそわそわと落ち着かず、じっとしていられないほど気持ちが乱れてくる。
 どうしようもなくて、咲月は忙しなく視線をさ迷わせた。と、何気なく向けた視界の端を、紺色の制服の袖から出ている直哉の手がかすめた。
 その途端、咲月の脳裏に手を繋いだ子どもたちの姿が鮮やかによみがえった。
 あの二人のように、昔は咲月たちも手を繋いで遊んだものだ。いつだってそれが当たり前だったあの頃。直哉の手は温かくて柔らかく、繋いでいるだけでうきうきと胸が弾んだ。
 最後に手を繋いだのはいつだっただろう。小学校の四、五年生くらいだっただろうか。名前で呼び合う習慣は続けていたくせに、手の方はいつの間にか繋がなくなっていた。
 微動だにしない直哉の手を眺めながら、そんな記憶をなぞっていた咲月の胸に、不意に子どもっぽい衝動が込み上げてきた。それは、元々平常心を失っていた咲月にとって耐え難い程の衝動だった。
 悪戯心ばかりが膨らみ、咲月の自制心は呆気なく吹き飛ばされてしまう。
 そこで咲月はにんまりとした笑みを浮かべ、いつもなら考えられないような行動に出た。
「なーおや!」
 後先考えずに身体が動く。
 突然の呼びかけに直哉が振り向くより早く、咲月は先程から狙い定めていた彼の手を握った。
 いきなりの行動に、直哉が仰天する。そして、主導権を握った咲月はそんな直哉に余裕の笑みを向ける……はず、だった。今さっきまでの、咲月の頭の中では。
(えっ!?)
 衝動に任せ、自分から行動したはずなのに、咲月は我が身を襲った違和感に身体を硬直させた。
 直哉の手。咲月が掴んでいるこの手は、本当に直哉の手なのだろうか。ふわふわで、あったかくて、小さくて、少し汗ばんでいたあの手なのだろうか。
 こんなに骨っぽく、ゴツゴツしていて、大きな、この手が?
 軽いパニックに襲われ凍り付いていた咲月は、自分に向けられた直哉の視線を感じてカッと頭に血が昇った。
 どうにかしてこの場をやり過ごしたいのに、焦るばかりで頭の中が真っ白になってしまう。
 早く何か言わなければ。
 直哉に変に思われる。
「あっ、あのっ」
 やっとのことで絞り出した咲月の声は、妙に上ずっていた。我ながらあまりの胡散臭さに、背中にじわりと嫌な汗が滲んでくる。
「昔はこうやって、良く手を繋いだよね! ほら、さっきの子達みたいに! なんだか懐かしいな〜、なんてね!」
 取って付けたようにそう言い、咲月は引きつった笑みを直哉に向けた。
 と、その瞬間。
「そうだな」
 直哉は優しげに目を細め、キュッと咲月の手を握り返してきた。
――ドクン。
 痛い程に、胸が高鳴る。
 先程から熱かったはずの頬は更に熱を増し、呼吸が止まり、思考も停止する。
 実を言うと、咲月は己の衝動がもたらす結果をまったく考慮していなかった。ただ手を繋ぎたいから繋いだだけで、それ以上でも以下でもなかったのだ。当然、直哉のリアクションのことなど頭になかった。悪戯を企む子どものように(驚くかな?)とほくそ笑んでいた程度だった。
 だから、この現状は、あまりにも予想外だ。
 ふとした出来心で、ほんのちょっとふざけて手を繋いでみただけなのに。
 それなのに、この反応。まさか、握り返してくるなんて。しかも、咲月の手はすっぽりと包まれてしまっている。これでは、まるで、まるで……。
――直哉の手の反応は、犯罪だといっても過言ではない。
 霞がかったようにぼんやりとした咲月の頭には、支離滅裂な言葉が浮かんでは消えるばかりで、まるで現実味が感じられない。直哉の手の温かささえ、他人事のように遠く感じられた。
 どれくらいの間、そうやって呆けていたのか――永遠のように長い時間だったのか、瞬きするような短い時間だったのか――恐らく後者だったのだろうが、不意に咲月は自分の身体に嫌な感触を覚えて我に返った。
 最悪なことに、直哉と繋いでいる咲月の手がじわじわと汗ばんできているのだ。
 早鐘のように刻み続ける鼓動のせいだろう、隠しようもないくらい湿ってしまった咲月の手。これではますます直哉に不審がられてしまう。
 その直哉は昔の思い出に耽っているのか上機嫌で頬をゆるめ、咲月の様子などまったく気にしていないのだが、混乱した咲月には直哉の状態を観察するゆとりもない。
 意識が手にいったせいだろうか、滲み出る汗は止(とど)まることを知らず、べったりと咲月のてのひらを浸蝕していくような気がする。このままでは直哉に気取られるのも時間の問題だろう。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!?)
 焦れば焦るほど思考は空回りし、解決方法など微塵も思い浮かばない。
 と、いうより。
 この時になって初めて咲月は別の問題に思い至った。
 うっかり繋いでしまったこの手は、一体どうやって離せば良いのだろう?
 手を離しさえすれば汗の問題は解決する。しかし、今度は"手を離す"という問題が浮上してきたのだ。まさか自分から繋いでおいて、振り払うわけにもいくまい。いっそのこと握られた瞬間に直哉が振り払ってくれれば良かったのに……と、逆恨みのような思いまで湧いてきてしまう。
 仕方なく、咲月はドラマや映画、漫画などから得た知識を総動員させて、カップルが手を離すシーンを脳裏に描こうとした。傍から見たら突飛な行動かもしれないが、本人は至って真面目だ。なにしろ、生まれてから一度も異性と付き合ったことがない咲月にとっては、それらの知識だけが頼みの綱なのだ。
 が、しかし。
 ……まったく思い浮かばない。
 一体、世間のカップルは繋いだ手の後始末をどう付けているのだろう。一度繋いだら一生繋ぎっ放しになるわけではないのだから、きっと自然な離し方があるはずなのに。
 その間もどんどん熱を増してくる咲月の手。直哉にしっかりと握られているので、こっそり隙間を空けたり離したりすることはできそうもない。絶望的だ。なぜだか咲月は泣きたくなってきた。
「咲月?」
 いきなり名前を呼ばれ、咲月はビクッと身を強張らせた。
「えっ、ななななに?」
「いつまでもこんな所に突っ立ってないで、そろそろ行こうぜ」
 しどろもどろになる咲月を面白そうに眺め、直哉は何事もなかったかのように歩き出した。
 繋いでいる手を引っ張られ、呆然としたまま咲月も直哉に従う。
 気付けば秋の陽は更に赤味を増し、夕刻独特の寂寥感が通りに立ち込め始めている。十字路の先からランドセルを背負った子どもたちが数人歩いて来るのが見えた。この道を真っ直ぐ行くと、咲月たちが通っていた小学校があるのだ。歩き出した二人の横をシルバーの自動車が通り過ぎて行った。
 夢でも見ているような心地で、咲月は瞳に映る景色を眺めた。
 いつもと変らない、見慣れた風景のはずなのに何かが違う。夕焼け間近の空の色は、こんなに透明で美しいものだっただろうか。
 空を走る電線のライン、遠くに見える鉄塔のシルエット、金色を帯びた大気の中を飛んでいく鳥たちの姿。
 青々とした生垣、風雨に晒され色褪せたブロック塀、陽の光を返す窓。
 世界はこんなにも穏やかで優しさに満ちたものだっただろうか。かすかに届く子どもたちの笑い声は、なんて幸せな響きなんだろう。
 コトリ、と。
 咲月の胸の中で、何かが生まれた。とても些細で、まだ名前さえない感情だけれど、それは確かに心の奥底で芽吹いたのだ。
 けれど。
 咲月の本能はその小さな芽を摘み取った。咲月自身が気付く前に存在を抹殺し、初めから何も無かったことにする。
 無意識の防衛本能。
 瞬く間に遂行された作業により、咲月の思考は別の方向へ転換された。
 つまり、焦る自分とは対照的にごく自然に振舞い、余裕さえ感じられる直哉の態度に初めて気付いたのだ。その瞬間、穏やかな気分は吹き飛び、咲月の機嫌は急転直下した。
 どうして直哉はこんなに落ち着いているのだろう。いきなり手を握られたのに驚きもしないなんて。それどころか平然と握り返してくるとは何事だ。
 答えは解っている。
 直哉は女性と手を繋ぐことに慣れているのだ。半年で三人も彼女を取り替えたのだから当然だろう。何年か振りで手を繋いだ咲月と違い、直哉にとっては日常茶飯事に過ぎない出来事だったのだ。
(どうせあたしには彼氏なんていませんよ)
 どう考えても八つ当たりなのだが、拗ねた咲月は直哉と手を繋いでいること自体が苛立たしく思えてきた。
(大体、直哉のくせに生意気よ。ちょっとくらいモテるからって何なのよっ!)
 直哉のくせに。
 直哉のくせに。
 直哉のくせに、生意気だ。
 顔色一つ変えず、汗一つかかないなんて。
 それなのに、
(あたしの手ってばどうしちゃったの!?)
 気付けば咲月のてのひらは、壊れた蛇口のように汗を滲ませ続けていたのだ。
 限界だ。
 頭にカッと血が昇る。
 今すぐ繋いだ手を振り払いたくてたまらない。
 直哉が十字路を左に曲がる。
 続いた咲月は、視界の端に駄菓子屋の軒先にはためく暖簾を捉えた。
 その瞬間、
「直哉っ!」
 もの凄い勢いで手を振りほどき、
「じゃーんけん、ぽんっ!!」
 咲月は直哉に向かって"グー"を突き出していた。
 そして、固く握られた咲月の拳の向こうには、反射的に出された直哉の手。長い二本の指が"V"の字を形作っている。
「やったね、あたしの勝ち」
「何だよ、いきなり。ずるいぞ!」
 得意げに胸を反らせる咲月に、直哉が眉をしかめた。実は、子どもの頃から直哉が咄嗟に出すのは"チョキ"と決まっているのだ。"グー"しか出せなかった咲月の抜き差しならぬ事情を知らない直哉にとっては、ズルをされたのも同然だったのだろう。
「ふふーん、負けは負けでしょう? ねぇ、あたし喉渇いちゃった。おばあちゃんの店でラムネおごってよ」
 さり気なく両手を後ろに回し、咲月は悪戯っ子のように微笑んだ。
「えっ、ラムネかよ〜。あの店で一番高価な飲み物じゃん」
「高価って、たかが百円でしょ。オーバーね、小学生じゃあるまいし……」
「だってさぁ」
 やけに情けない声を出し、直哉がポケットに片手を突っ込む。
「今日、財布持って来るの忘れちゃってさ、全財産これだけなんだけど」
 咲月の目の前でゆっくりと開かれる拳。そこには十円玉がたった三枚載っていた。
 ぽかんと口を半開きにした咲月の耳に、照れを含んだ直哉の苦笑いが届く。確かに所持金がこれっぽっちなら百円のラムネは高級品の部類になるだろう。
「もう、仕方ないなぁ……。それじゃあポッキンアイスはどう? あれなら買えるでしょ」
「そうだな、ちょっと待ってろ、今買って来るからさ。何味がいい?」
「う〜ん、ソーダ味でいいよ」
(直哉の好きな)と胸の中で付け足し、咲月はにこりと笑ってみせた。わずかに目を見開いた直哉が「オッケー」と笑顔でうなずき、小走りに駄菓子屋へ向かう。
 ガラス戸の向こうへ消えていく背中を見送りながら、咲月は特大の溜め息を吐き出した。
 いつもと同じ短い帰り道だというのに、何光年もの道程を歩いたような気がする。空気に晒され、すっかり乾いた手のひらを胸に当てると、未だに動悸が続いているような気がした。
 だが、とりあえず危機は去った。
 ジャンケンとは我ながらとんでもない対処法だったと思う。こんな時は直哉の単純さがひたすらありがたい。
 ガラガラ……、と引き戸が開く音に眼をやると、さっきの子どもたちが嬉しそうに紙袋を抱えて出て来るところだった。袋からスナック菓子の包みやふがしの頭、カステラの竹串などがわずかにのぞいている。
 やはり咲月と直哉の予想通り子どもたちの目的地は駄菓子屋だったようだ。すっかり涙の乾いた男の子の赤い頬を見つめ、咲月は微笑んだ。
『俺さ、小さい頃、咲月に置いて行かれるのが一番怖かったんだ』
 いや、咲月が微笑みを向けているのは、目の前の男の子に重なる幼い直哉に対してなのかもしれない。
「ホント、バカなんだから……」
 咲月の自嘲めいたつぶやきが風に消える。
 本当は、怖かったのは咲月も同じだった。
 もしも、直哉が追いかけるのを諦めてしまったら? 意地悪な咲月に怒って一緒に遊ぶのを止めてしまったら?
 直哉に嫌われてしまったらどうしよう、ほんのわずかだがそんな不安はいつだって咲月の胸に付きまとっていたのだ。
 今だって咲月は覚悟している。
 いつの日か、誰か他の女の子が直哉の心をつかみ、"特別"な場所を取って代わられるだろうことを。
 いくら子どもっぽい直哉でもいつかは本気の恋をする日がくるだろう。そうしたら、直哉の一番は幼馴染みの咲月ではなく、他の誰かになるはずだ。
 それを咲月は覚悟している、つもりだ。頭では。
 けれどその日が来るまで、直哉にとって"幼馴染み"という存在は特別なものであり続けるだろう。家族とも友達とも恋人とも違う、特別な関係。
 幼馴染み至上主義の直哉のことだ、もしかしたらその日が来ても変らず咲月を特別扱いしてくれるかもしれない。幼馴染みでさえいれば、例え一番ではなくなっても、無下に切り捨てられることだけはないような気がする。身に馴染んだ毛布をあっさり捨ててしまえないように、十数年来の関係だって容易く放り出せるわけがない。
 "幼馴染み"でいる限り、いつまでも。
 だから。
 咲月は今の関係を壊したくない。
 この、心地良いぬるま湯のような関係を。
 咲月だって直哉が自分を大切にしてくれるのは、"幼馴染みだから"だということくらい解っている。直哉にとって大切なのは"幼馴染みの咲月"であって、咲月が"咲月だから"ではない。
 それを咲月は理性でというより、本能で感じ取っていた。
 直哉との理想的な距離間を無意識のうちに計り、近付き過ぎても離れ過ぎても本能が警鐘を鳴らす。そして、いつでも最高の幼馴染みでいられるように、危険な因子を摘み取るのだ。
――まるで、男の人みたい。
 ふざけて手を繋いだ時、咲月はうっかり直哉に異性を感じそうになった。
 直哉の手が自分より大きいことくらい見て分かっていたはずなのだが、触れてみて初めてその大きさを実感し、直哉が"男"であることを認識しそうになったのだ。
 けれど、咲月の頭はそれを拒絶した。混乱に乗じて"まるで"に続く言葉をうやむやにし、支離滅裂な思考でお茶を濁した。
 それだけではない、今日のこの短い帰り道の間だけでも何度無意識の防衛本能が働いただろうか。それはもう癖になってしまっている、と言っても過言ではないかもしれない。
 すべては"幼馴染み"の地位を守るため。
 そのためなら咲月は自分自身にさえ平然と嘘をつくのだ。
 無意識の水面下でくり返されるその作業に、咲月自身は微塵も気付いていない。葬られた想いの行方も知らない。ただ、直哉と幼馴染みでいられれば、それだけで充分幸せだったから、他に望むことなど何もなかった。

「よっ、お待たせ!」
 角を曲がっていった子ども達をぼんやりと見送っていた咲月は、頬にヒヤッとした冷たさを感じて小さく悲鳴を上げた。
「冷たっ! 直哉っ、何するの!?」
「ボーッとしてるからだろ。ほら、ご注文のポッキンアイス」
 怒る咲月をニヤリといなし、直哉は咲月の目の前にピンク色のチューブ入りアイスを差し出した。
「あれ、ソーダ味売り切れだったの?」
 いちご味のアイスに小首を傾げ、咲月は何気なく直哉を見やった。
「バーカ」
 直哉はそんな咲月に満面の笑みを向けながら、器用にアイスを二つに折る。パキッと心地良い音が二人の間に響いた。
「咲月の好物にしてやったんだろ」
「……覚えてたんだ」
 幼い頃、直哉は水色のソーダ味、咲月はピンク色のいちご味のポッキンアイスを食べるのが常だった。野暮な直哉がそれを覚えていたなんて驚きだ。
 咲月はちょっぴり感動しながら差し出されたアイスを受け取った。
「そりゃ、忘れるわけないだろ。うっ、冷てえ〜」
 眉間に皺を寄せながらアイスにかじり付く直哉に苦笑を漏らし、咲月もひと口アイスをかじってみる。と、キンとした冷たさの後からいちごの甘い香りが口いっぱいに広がった。
 季節外れのアイスは身を振るわせるほど冷たいけれど、なぜだか咲月の心にはほんのりとした温かさが滲んでくる。人工のいちごの香料さえ、とても優しい匂いに感じられた。
 咲月は浮き立つ心のまま、上機嫌で直哉に問いかけた。
「今日もおばさん遅くなりそう?」
「ん? ああ、そうみたいだな。特に連絡は入ってないぜ」
 ポケットから取り出した携帯をチェックしながら直哉がうなずく。
 出版社に勤めている直哉の母親は相変わらず仕事が忙しく、早く帰れる日だけ連絡が来る習慣になっていた。エンジニアの父親は海外の現場に単身赴任中のため、北村家は母子家庭状態……というよりほとんど直哉の一人暮らしのようなありさまになっている。
「それなら、アイスのお礼に晩ご飯のリクエストに応えてあげるよ。何が食べたい?」
「え、マジ? やったね、じゃあハンバーグがいいな」
「もうっ、直哉ってばいっつもハンバーグばっかりなんだから。でも却下。昨日のお弁当に入れてあげたでしょ?」
 咲月は母親のような気分で直哉をたしなめた。
 咲月と眼が合うと、直哉はつまらなそうに唇を尖らせる。
「え〜、咲月のハンバーグ旨いもん、毎日だっていいんだけどな。んー、それじゃ豚肉のしょうが焼きならどうだ?」
「キャベツもたっぷり食べるならいいよ」
「決まりだな!」
 無邪気に笑う直哉を可愛いと思う。クスリと笑みを漏らし、咲月は頭を料理に切り替えた。しょうが焼きに必要な材料に思いを馳せる。
 豚肉なら北村家の冷凍庫にこの間の安売りの時に買っておいたロース肉の薄切りが保存されているはずだ。しょうがは咲月の家にあるのを持って来ればいいけれど、キャベツは買わなければならないだろう。ジャガイモやニンジンの残りもあるはずだから、材料を買い足して付け合せにポテトサラダでも作ろうか。味噌汁の具は何がいいかな……。
 確かに、高校生になってから直哉が井川家の夕餉に顔を出す回数は減った。しかし、逆に咲月が北村家のキッチンで腕を振るう、という新たな習慣ができつつあるのだ。
 直哉が誰かと付き合っている間は外で夕食を済ませてくることが多いため咲月の出番はないけれど、彼女がいない時は今日のように帰りが一緒になることが多かったので、自然と夕食を世話するようになっていた。
 咲月は北村家の冷蔵庫の中身を何でも使って良いことになっている。その上、足りない材料があれば食材用のお金で自由に買って良いことにもなっていた。おかげで、冷蔵庫には咲月が使い残した野菜類や特売で買った肉などが我が物顔で保存されているのだ。
 そんなわけで、直哉がB組の彼女と別れてからのここ一週間ほどは、ほとんど毎日のように北村家のキッチンに入り浸っていた。
 けれど、新しい彼女ができたということは、今日を最後にしばらくの間は夕食がいらなくなるということだ。
 ふっと胸を過(よ)ぎりそうになった感情を、咲月は頭を振って払い除けた。
「買い物あるんだろ? 財布を取りに帰らなくちゃなんないから、そろそろ行こうぜ」
 のん気な直哉の声が咲月を我に返らせた。
 見ると、携帯をしまいながら直哉がこちらを振り返るところだった。どうやら咲月が考え事をしている間に母親宛にメールを打っていたらしい。こうしておけば母親がスーパーの惣菜を買って来る心配がなくなるからだ。
「あ、うん。そうだね」
 咲月は相槌を打ちながら腕時計を確認した。今からならスーパーのタイムセールに間に合いそうだ。
「キャベツとか買うから、荷物持ちよろしくね」
「へいへい」
 気の抜けた返事をしながら、直哉は溶けかけたアイスの最後のひと口を飲み込み、空になったチューブを店先のゴミ箱に放り投げた。
 咲月も思い出したように半分ほどになったアイスをかじる。ハンカチで巻いていたにもかかわらず、指先はすっかり冷え切ってしまっていたけれど、今はその冷たさがやけに心地良く感じられた。
「あ、そうだ。あとで古典の訳を写させてくれよな。咲月のクラス進んでるだろ?」
「それが人に物を頼む態度なわけ? 随分と偉そうじゃない」
「それじゃ、偉大なる咲月様、どうぞわたくしめに古典の訳を写させてくださいませ〜」
 悪ふざけする直哉に小さく「バカッ」と返し、咲月は踵(きびす)を返して歩き出した。そして、慌てて追って来る直哉の気配を背中に感じ、とうとう堪えきれずにふき出した。
 行く手には、高度を落とした初秋の夕日。赤味を増した穏やかな光が、じゃれるように会話を続ける二人を柔らかく照らし出す。
 慣れた歩調で歩く咲月と直哉の後ろには、長い影がこちらも仲良く並んで伸びていた。



 閑静な住宅街の通りを、二人の子どもが笑いながら通り過ぎて行く。
 甘い香りを含んだ風が、鈴の音のようなその声を追いかけ、やがて空へと消えていった。
 とうとう咲月は見付けられなかったけれど、確かに花は咲いていた。細い路地の片隅、表通りからは死角になったその場所で、咲き始めの小花がかすかな芳香を漂わせていた。
 吹いてきた風が、枝葉を揺らす。
 木漏れ日がおどる地面に、可憐な花が星屑を撒いたように散っていく。
 陽だまりの中、金木犀が優しい香りを漂わせ、深まりゆく秋の始まりを告げていた。



END





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今回のテーマ : 無意識の片思い


「今夜、星の降る街へ」