ひだまり

― Side Kanami ―





「奏海(かなみ)! 早く早くー! 祐くんたち、もう校門の所に来てるよ!」
 親友の汐里(しおり)に急かされて、わたしは人波でごった返す廊下を校門の見渡せる窓辺まで走った。
 窓を開け放った汐里が興奮した様子で下を指差す。
「ほらほら! まだ約束の時間まで十分もあるっていうのにね! ……あ、何よあの女、祐くんのことジロジロ見ちゃってさー、むかつくー!」
 頬を膨らませる汐里の横顔に苦笑を漏らし、わたしも校門の方を窺った。
 文化祭二日目、一般参加の今日は校内も校外も制服、私服を問わずたくさんの人々が入り乱れている。派手な看板を持って客引きをする見知った顔に微笑みながら、わたしはゆっくりと視線を汐里の指差す先に向けた。
 まず眼に飛び込んで来たのは、汐里の彼氏の祐太(ゆうた)くんの姿。赤っぽい色のシャツに細身のジーンズが凄く良く似合っている。
 そして、祐太くんが笑顔を向けている先、グレーっぽいパーカーを羽織っている男の子。
 不機嫌そうに祐太くんから顔を背けた彼の姿に、わたしの胸が小さく痛む。
「何よ、祐くんってばあんなに目立つシャツなんか着ちゃってさ……。でも似合ってると思わない、ねぇ、ねぇ?」
「うん、そうだね……」
 何だかんだ言いながらも、嬉しそうに頬を染めて祐太くんを見つめる汐里。なんて幸せそうなんだろう。見ているわたしまで、一瞬胸の痛みを忘れてしまうくらい。



 汐里が祐太くんと付き合い始めたのは、夏休みに入るちょっと前のことだった。
 入学以来、毎朝汐里と同じ電車に乗り合わせていた男の子。制服から隣の駅の私立高校の生徒だということはすぐに分かったそうだ。その新しさから同じ学年だということも。
「すっごくカッコイイんだから〜!」と騒いでいたその彼に、汐里の方から告白した。可愛い顔に似合わず、度胸と行動力なら誰にも負けない汐里。わたしにはとても真似できそうもない。
 汐里本人も"当たって砕けろ"のつもりだったらしいんだけど、結果は幸運にもOKだった。彼の方でも毎朝一緒になる汐里を意識していたらしい。
「付き合うことになっちゃった!」と報告してきた時の汐里の幸せそうな顔は、今でもしっかり脳裏に焼き付いている。親友の幸福が、わたしも心の底から嬉しかった。
 それからすぐに夏休みに入り、汐里と祐太くんは熱い夏を思いっきり満喫したようだ。毎日のように届く汐里からのお惚気メール。時々掛かってくる電話での弾んだ口調。一緒に買い物に行ったって、汐里の口からこぼれる言葉は二言目には「祐くんがね」だし。
 汐里の幸せそうな微笑みは、眩しいくらいだった。全身から"あたし、恋してます"っていうオーラを発散し、キラキラと輝く汐里。そんな汐里がわたしには微笑ましく、同時にちょっぴり羨ましかった。だから……。
 単純に、ぼやいただけだった。深い意味はなく、ほんの戯れ言程度に。
「いいなー、汐里は。わたしも誰か素敵な人と出逢いたいなぁ……」
 わたしの言葉に目を光らせた汐里。この時の彼女の微笑みの真意を知ったのは、ほんの二週間ほど前のことだった。



「ほらほら、奏海! 坂井くんも来てるよ〜」
 無邪気な笑みを浮かべた汐里に肘で小突かれて、わたしは曖昧な笑みを浮かべた。
 グレーのパーカーの男の子、坂井秀之(さかい ひでゆき)くん。一応、わたしたちは付き合っているらしい。
 祐太くんの友人である彼と初めて会ったのは、二週間前の、とある放課後。
 その日の朝、汐里から「紹介したい人がいるの」と聞かされたわたしは、訳も分からないまま駅前のファーストフード店に連れ込まれていた。
 そこで待っていたのが祐太くんと坂井くんの二人だった。祐太くんとは夏休み中に会ったことがあったし、いつも汐里から携帯の写真を見せ付けられていたから少しは面識があったけれど、隣に座っている男の子の方は全くの初対面だった。
 腕を組んで椅子に寄りかかり、不機嫌そうに窓の外を眺める姿はとても威圧的で、怖そうな人という印象を抱かせる。どちらかといえば、わたしの苦手なタイプ。
 すべてを拒絶するような彼の横顔に気を取られていたわたしは、汐里に不審げに名を呼ばれて慌てて彼女の隣、怖そうな彼の正面の席の椅子を引いた。
「おい、ヒデ! なにボケッと窓の外なんか見てるんだよ。こっちが俺の彼女の汐里。知ってるよな? んで、その隣の彼女が、ええと……?」
「奏海ちゃんでしょ! もう、祐くんてっば前に会ったことあるでしょう?」
「あっ、そうそう、奏海ちゃん。奏海ちゃん、こいつ俺のダチで坂井秀之っていうんだ、怖そうに見えるけど照れてるだけだから気にしなくていいよ」
 そう言って愛想良く笑った祐太くんを、坂井秀之という名の怖そうな彼が冷たく一瞥(いちべつ)した。
「なに勝手なこと言ってるんだよ」
 無愛想な態度に負けず劣らず彼の声は低くて怖かったから、わたしは汐里にのこのこ付いて来てしまったことを心の底から後悔した。「だって、素敵な恋人欲しいって言ってたでしょう?」という汐里の言葉なんて無視してしまえば良かったんだ。
 本当は、全く期待していなかったと言ったら嘘になる。汐里が羨ましかったのは事実だし、「祐くんの友達に奏海と合いそうな人がいるんだって!」という言葉に心を動かされもした。
 だけど……。
 わたしは半ば泣きそうな気分で正面の席を見やった。その途端、こっちを見ていた坂井くんと眼が合ってしまい、思わず硬直してしまう。息もできず、眼を逸らすことさえできない。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
 坂井くんの方も、一瞬驚いたような顔をしてわたしを見つめたけれど、すぐに我に返り、呆然と送り続けられるわたしの視線に居心地が悪そうに鼻の頭をこすった。
 彼の迷惑そうな視線に気付き、わたしも慌てて下を向く。
 と、唐突に椅子を引く音が鳴り響いた。
「おい祐太、行くぞ」
 それだけを言ってさっさと歩き出してしまった坂井くんの後ろ姿を、わたしは呆気に取られて見送るしかなかった。それは汐里も同じだったようで、隣から息を呑む様子が伝わってくる。
 祐太くんは「ごめんな」のひと言を残しただけで坂井くんの後を追ってしまったので、わたしたちはざわめく店内にぽつんと取り残されてしまった。
 やっぱり坂井くんはわたしが気に入らなかったのだろうか。そうかもしれない。だってわたしは汐里みたいに可愛くないし、スタイルが良いわけでもない。どこにでもいるような、地味で平凡な女の子だ。だから、きっと幻滅されてしまったのだろう。
 それなのに、一体わたしは何を期待してこんな所まで来てしまったんだろう……そう、初めから来るべきではなかったんだ。
 涙が出そうになり、わたしはうつむいて唇を噛んだ。こんなことでは泣きたくない。ほんの一瞬だけ会った男の子に気に入られなかったからといって、泣くのは嫌だ、絶対に。
 軽快な音楽がやけに空々しく聞こえる。後ろのテーブルで、どっと笑い声が弾けた。すべてがあまりにも遠い。
 と。
 コトン、と小さな音がすぐそばで聞こえた。その音に、身体中がピクリと反応する。
 わたしはのろのろと視線を上げた。音は、わたしのすぐ前、テーブルの上から聞こえたような気がした。うな垂れていたわたしは、膝の上で握りしめた自分の両手を眺めていたので、音の正体に辿り着くまでわずかに時間がかかってしまった。
 探るように移動したわたしの視線が、テーブルの上に置かれたコップを捉える。どこから現れたのか、そこには大きな紙コップとストローが置かれていた。
 ぼんやりと紙コップを眺めていたわたしは、はっと我に返り、弾かれたように顔を上げた。
 まず眼に入ったのは、紺地に白いラインが入ったネクタイ。それから、硬く引き結ばれた唇、わたしを窺う不機嫌そうな眼差し。
 坂井くんは、わたしから眼を逸らして目の前の席にドカッと座り込んだ。そして、そんな彼の行動を瞬きもせず見つめていたわたしに再びチラリと視線を投げてよこす。
「飲みなよ」
「……え?」
 突然話しかけられて、わたしの混乱が深まる。反射的に問い返すと、坂井くんは煩わしそうに眉根を寄せた。
「それ。何がいいのか分かんなかったから、テキトーに買って来ちゃったけど」
 彼の視線に釣られるように、わたしも目の前のドリンクを見やった。表面に薄っすらと汗をかいた紙コップ。透明な蓋の中にはピンク色のとろりとした液体が透けて見える。
「あ、あの……」
 まだ現実に追いつけなくて、わたしはおずおずとした視線を坂井くんに向けた。けれど、彼と眼を合わせる勇気が出なくて再びテーブルの上に視線を落とす。今まで気付かなかったけれど、坂井くんの前には湯気を上げるコーヒーが置かれていた。
「もしかして、嫌いだった?」
 心なしか不安げな声に思わず顔を上げると、坂井くんの揺れる眼差しと視線が絡んだ。
 トクン、と心臓が反応する。
 わたしはうろたえながらも必死で頭を振った。
「ううん、そんなことない……」
 わたしの答えに坂井くんの眼差しがゆるむ。彼は大きく息を吐いて目の前のコーヒーに手を伸ばした。
「それじゃ、飲みなよ。俺の奢りだからさ」
 再度促されてわたしもおずおずとコップに手を伸ばした。震えそうになる指先で、袋から取り出したストローを蓋に突き挿す。手に取るとひんやりとした冷たさが直に伝わってきた。
「……いただきます」
 ストローに唇をつけ、そっと吸い込む。想像していたよりもすんなりと口の中に冷たさが広がった。
 ほっとしつつ視線を上げたわたしは、坂井くんがとても穏やかな眼をしてこちらを見ていたことに気が付いた。さっきまで怖いと思っていたのが嘘のような、優しげな眼差し。
 だから、かもしれない。
 わたしの中に、甘いイチゴの香りが融けて消えた。



 後日、そんなわたしたちの様子を汐里と祐太くんが笑みを交わしながら見つめていたことを知って、もの凄く恥ずかしい思いをしたのだけれど……。
 とにかく、あの日からわたしと坂井くんは付き合い始めたことになっているらしい。
 わたしは校門のそばに佇む坂井くんの姿を眼で追った。ポケットに片手を突っ込み、所在無げに地面を蹴る坂井くんは、どう贔屓目に見ても楽しそうには映らない。どちらかというと迷惑そうだ。多分、彼は他校の文化祭なんて興味がないのだろう。もしかしたらせっかくの休みを潰されて怒っているのかもしれない。
 実際、坂井くんと顔を合わせるのは今日が二回目だった。あとは二週間のうちに電話が一回とメールが五回。
 これなら、クラスメイトの男の子の方がよっぽど交流がある。わたしと坂井くんが付き合っているというのなら、隣の席の男の子とは夫婦関係だといっても過言ではないと思う。
「あ、気付いたみたい!」
 不意に汐里が弾んだ声を上げ、下に向かって大きく手を振った。見ると校門の横では祐太くんがこちらに向かって手を振り返している。そんな彼の後ろで坂井くんがじっとわたしたちがいる窓を見上げていた。……正確には、わたしを、見上げていた。
 一瞬絡んだわたしたちの視線。
 刹那、わたしの胸にさっきとは違う痛みが走った。
 もっとずっと、甘さと切なさを帯びた痛み。
 それはわたしに混乱をもたらした。けれどわたしは、久しぶりに彼の鋭い視線を受けたせいだ、直接会うのは今日が二回目だから慣れていないせいだ、と無理やり自分を納得させた。
 汐里に急かされて廊下を走るわたしの胸は、高鳴る鼓動で苦しいくらいだったけれど、それもきっと走っているせい。まるで雲の上を走っているように足元の感覚がなかったけれど、それだってきっとお祭りに浮かれ騒ぐ騒音が頭に直接響いてくるせい。もたもたと階段を駆け下りる汐里を急かしたくなったのは……、それだって何か正当な理由があるはずだ。
 弾むような足取りで昇降口へ向かう汐里を追い抜かないように注意しながら、わたしは焦りのようなものを感じる自分にかすかな苛立ちを覚えていた。



 一回の電話をかけたのも、五回のメールを送ったのも、全部わたしからだった。
 電話はファーストフード店で会った日の夜。イチゴシェイクのお礼を言うために勇気を出してボタンを押した。
 電話の向こうから響いてくる坂井くんの声は不機嫌な顔が想像できるくらいぶっきらぼうだったから、萎縮したわたしは早々に電話を切ってしまったけれど。
 もしも汐里にけしかけられなかったら、わたしたちの縁はそこで途切れていたかもしれない。
 汐里は落ち込むわたしにメールを送ってみろと言ってきかなかった。わたしを困らせて喜んでいるとしか思えなかったけれど、彼女の粘りに負けたわたしは結局坂井くんにメールを送信してしまった。一日の些細な出来事を書いたバカみたいな内容だったけれど、彼は律儀に返事をくれた。視線も声も感じられないせいだろうか、彼とのメールのやり取りは想像以上にスムーズだった。
 彼からの最後の返信は一昨日の夜。それは『明後日の文化祭楽しみにしてる。』という文章で締め括られていた。わたしはその言葉を真に受けて、ほんの少し浮かれていたのだ。汐里に気付かれないように用心していたけれど、それでもわたしの言動はいつもより明らかにはしゃいでいた。……そう、窓から坂井くんの不機嫌そうな姿を見るまでは。



 あの言葉は単なる社交辞令だったのだろうか。
 わたしは少し前を歩く坂井くんの長身をそっと見上げた。祐太くんより背が高い彼は、中学時代バスケ部に所属していたらしい。高校ではどうしてバスケ部に入らなかったのかは知らないけれど、何だかもったいないような気がする。入学してからもう半年以上経つけれど、坂井くんのがっしりとした身体つきは今でも現役プレイヤーのようだったから。
 坂井くんは相変わらず寡黙だった。スリッパをパタパタいわせながら、前だけを見て歩いている。初めて訪れる他校なんだから、普通ならもう少し興味深げに辺りを見回したりすると思う。やはり、つまらないのかもしれない。
 斜め後ろから見える彼の横顔は無表情で、わたしはちょっぴり泣きたい気持ちになった。
 前を歩く汐里たちは、わたしたちと打って変わってとても楽しそうだ。誰が見たってお似合いの恋人同士。祐太くんが汐里を見つめる眼差しも、汐里が祐太くんに返す微笑みも、きっとお互いだけに向けられる特別なもの。
 わたしと坂井くんは、一体どんな関係に見えているんだろう。
 そんなことを考えながら歩いていたわたしは、急に立ち止まった坂井くんの背中に危うくぶつかりそうになってしまった。
「あ、あった、ここだ! 到着です〜!」
 はしゃいだ声を上げて汐里が振り返る。
 ぼんやりと皆の後を付いて来たわたしは、汐里の言葉に辺りを見回した。廊下の窓から見える風景がいつもよりほんの少し低い。入り口のプレートを見上げると、そこは二年生の教室だった。廊下側の窓はダンボールで塞がれ、入り口には不気味な看板。しかもそこには、案内係だろうか、白い着物姿に恐ろしげなメイクをした男子生徒が立っている。
「……え、お化け屋敷?」
 呆然と呟いたわたしの顔を、満面の笑みを浮かべた汐里が覗き込む。
「やっぱりカップルで入るならお化け屋敷でしょう! 昨日、キリちゃんたちから聞いたんだけど、ここのお化け屋敷ものスッゴク怖いんだってー」
「ええっ」
 思わず声を上げたわたしには構わずに、汐里は楽しげな様子で祐太くんを振り返る。
「祐くん、覚悟しておいた方がいいよ。中は真っ暗でねー、あちこちにビックリするような仕掛けがあるんだって」
「ふーん、でもどうせ作り物のお化けだろー」
「そんな風にバカにしてるとあとで痛い目を見るんだから。出て来る時にはそんな余裕吹っ飛んじゃってるかもよ〜」
 ふざけ合う二人はすっかり自分たちだけの世界に入ってしまったらしい。口を開きかけたわたしは、そのままぐったりと肩を落とした。
 実はわたしはお化け屋敷が大の苦手なのだ。
 本物のお化けなんていないと分かっている。それでも真っ暗な空間や、おどろおどろしい音楽、何よりも急に飛び出してくる不気味なお化けが怖くてたまらない。人間が扮装しているだけだと分かっていても足が竦んでしまう。
 それなのに、まさかこのわたしがお化け屋敷の列に並んでいるなんて。
 どんどん短くなっていく列に焦ったわたしは、強引に汐里たちの会話に割り込んだ。
「ちょっと待ってよ、汐里! とりあえず、今はお化け屋敷は止めておかない? ……そうだ、二人ともお腹空いてるんじゃない? 先に何か食べた方がいいと思うけど!」
 わたしの剣幕にビックリ顔になった汐里が小さく噴き出した。
「必死になっちゃって、どうしたの奏海? あ、もしかしてお化け屋敷が怖いとか……?」
 からかうように覗き込まれて、わたしは思わず言葉に詰まった。だけど、つまらない意地を張っている場合ではないと思い直す。汐里の腕を掴んで列から少し離れた場所まで引っ張り、わたしは声をひそめて耳打ちした。
「……そうよ。わたし昔からお化け屋敷って苦手なの……」
 恥ずかしいのを我慢して白状したのに。
 それなのに、その瞬間、無情にもわたしたちの順番が巡って来てしまった。
「お先に二名様どうぞー」
 お化けのくせにやたらとのん気な案内係の声。その声に、心配そうにわたしを見つめていた汐里の瞳がキラリと光る。
「大丈夫よ、だって作り物だし! ただの文化祭の催し物なんだからさ。坂井くんだって付いてるし、心配ないって!」
 早口でそうまくし立て、ダメ押しにわたしの肩をぽんと叩くと汐里は元気良く案内のお化けを振り返った。
「はーい、今行きまーす!」
 そして、祐太くんと連れ立ってさっさと教室の中に入ってしまう。わたしの眼には、ドアが閉まる瞬間こちらを振り返った汐里の笑顔がやけに鮮やかに焼き付いた。
 ―― どうしよう
 わたしは呆然とその場に立ち尽くした。
 教室の中からは、時々女の子の悲鳴が響いてくる。それに、反対側にある出口から出てくる人たちの顔が。笑っている人もいるけれど、その口元はどう見ても引きつっているような気がする。中には目を真っ赤にした女の子の姿もあった。
 また悲鳴が聞こえて来た。その声にわたしの不安が増大する。
 堪らなくなったわたしは、思わず列の先頭に並ぶ坂井くんの姿を見上げた。彼なら、「こんな所バカらしくって付き合えない」とでも言ってくれそうな気がしたのだ。
 けれど、わたしは首を傾けた姿勢のまま固まった。坂井くんはわたしを見ていた。それも、顔には笑いを噛み殺したような表情を浮かべて。
 ―― もしかして、バカにされてる?
 だから、わたしは、
「怖いのか?」
 という彼の問いに大きく頭を振ってしまった。否定した瞬間(しまった!)と後悔したけれど、後の祭りだ。
 まだ何か問いたそうな坂井くんから眼を逸らし、わたしは思い切って列の先頭に戻った。心臓が早鐘のように打っている。握ったこぶしは感覚がないほど冷たくなっていた。
「次の二名様、どうぞー」
 案内お化けの声が、無慈悲に響く。
 わたしは大きく息を吸い込んで、萎えそうになる足を前に動かした。入り口の暗幕をくぐる瞬間、わたしの名を呼ぶ坂井くんの声が聞こえたような気がしたけれど、決して足を止めなかった。

 やっぱり止めておけば良かった。
 つまらない意地なんて張らずに、怖いものは怖いと言ってしまえば良かったんだ。汐里には言えたのに、どうして相手が坂井くんだと素直になれないのだろう。
 鼻をつままれても分からないような暗闇。そこに呆然と立ち尽くし、わたしは激しい後悔の念に駆られた。
 本当は、少しだけ期待していた。
 汐里たちのようにはいかなくても、それでも少しは恋人っぽい雰囲気になれると思っていたのに。
 わたしのメールに返信してくれる彼の文面が楽しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。メールをやり取りするごとに、わたしたちの距離も縮まっていると思っていたのはわたしだけ?
 わたしからのメールが迷惑だったのなら、無視してくれれば良かったのに。わたしと付き合う気がないのなら、はっきり拒絶してくれれば良かったんだ。
 それなのに……。
 いつの間にか、彼からの返信を楽しみにしているわたしがいた。本当は毎日でもメールしたいくせに、その衝動をぐっと堪えたりして。
 ―― バカみたい
 結局、わたしの一人相撲だったのだ。
 祐太くんのように手を振り返してくれなくったっていい。ただ、ほんの少しでも笑いかけてくれたら、それだけで。
 わたしは自嘲の笑みを浮かべた。
 暗闇がありがたい。きっとわたしは酷い顔をしている。
 背後に坂井くんの気配を感じ、わたしは捨て鉢気味に暗闇へと突進した。
 と、その瞬間。
 闇から躍り出た怪物に、わたしは声にならない悲鳴を上げた。全身が一気に総毛立つ。
 ピクリとも動くことができず、その場に硬直する。
 ―― だから嫌だって言ったのに……
 頭の片隅でそんなことを考えたけれど、それよりも目の前の恐怖の方が大きかった。瞳は大きく見開かれていたけれど、そこに映る怪物が何者なのかも判らない。嫌な汗がじわりと滲む感覚。思考は酷く鈍っていた。ただ、恐怖が。恐怖だけが凄い勢いで膨れる、溢れてくる。
 わたしは恐慌状態に陥る寸前だったのだと思う。きっと、あと一瞬でもあの状態が続いていたら、なりふり構わず泣き叫んでいたことだろう。
 危ういところでわたしを救ってくれたのは、坂井くんその人だった。
「大丈夫だから。怖かったら目を閉じて」
 不意に意識に流れ込んできた声。同時にわたしの左手は何か温かいものに包まれた。
 その温かさがわたしを現実へと引き戻す。そして、頑なな心まで魔法のように融かしていく。わたしは素直な気持ちで目を閉じた。
「こっちだよ」
 どうしてだろう、あんなに怖いと思っていた坂井くんの声まで優しく感じる。
 目を閉じてしまったことで、わたしは光一つ射さない真の暗闇に閉じ込められてしまったけれど、不思議なほど恐怖感はなかった。わたしを繋ぎとめているのはこの世でたった一つ、この左手の温もりだけ。それはわたしに不安よりも安らぎをもたらした。
「曲がるよ」
「足元、気を付けて」
 低い声が心地良い。わたしを気遣ってくれる、わたしだけに向けられる彼の声。
 辺りは恐ろしげな効果音に包まれていたし、あちこちから不気味な唸り声も聞こえてきたけれど、少しも怖くなかった。不意に遠くから聞こえて来た悲鳴、あれは汐里だろうか。
 ビクリと身を竦めると、無言のままわたしの手を握る力が強まる。まるで、大丈夫だよと宥めるように。それだけで、わたしの心は満たされるから。
 ずっとこの時間が続けばいいとさえ思ってしまう。
 メールをやり取りするように、彼の姿が見えない方が返って坂井くんを近くに感じるなんておかしいけれど。
 結局、出口に辿り着くまでわたしの瞳が開かれることはなかった。



「出口だよ」の言葉でわたしは目を開いた。
 途端に眩いほどの光がわたしの視界に射し込む。
 思わず目をしばたかせたわたしは、不意に左手を振りほどかれた感覚ではっと身を強張らせた。
 ゆっくりと指を動かしてみる。空を掴む感覚。そこには先程までの温もりなど、跡形も残っていなかった。
 ―― やっぱり……
 どうやら坂井くんはわたしが怖がっていることを見抜いて同情しただけだったらしい。明るい世界に戻ってしまえば、自分の役割は終わったとばかりにわたしを突き放すのだ。
 ―― バカみたい
 ただの同情をかけがえのないものに感じていたなんて、ホントにわたしはどうしようもないくらいオメデタイ女だ。
 胸の底から溜め息がもれた。浮き立っていた心が急速に萎んでいく。
 わたしは苛立ちと落胆の入り混じった気持ちで坂井くんを見上げた。
 彼が不機嫌そうな表情を浮かべていることは見なくても分かっていたけれど。
 ―― え……?
 けれど、そこに立っていた彼は。彼の顔に浮かぶ表情は。
 わたしの予想外のものだった。
 坂井くんは薄っすらと頬を赤く染めていた。口をへの字に曲げていたけれど、それだって照れ隠しのようにしか見えない。
 だから。
 わたしの胸に広がる温かさ。
 さっきまで左手に感じていた温もりに負けないくらい、明るく優しい温かさ。
 どうして隣の席の男の子とは夫婦関係だといっても過言ではない、なんて考えたのだろう。多分、大事なのは会話の数ではなかったんだ。
 わたしは空っぽの左手をそっと握りしめた。
 例えば隣の席の男の子と手を繋いだとしても、こんな甘さが身体中を駆け抜けたりはしないと思う。こんな、切なさを伴った甘さなんかが。
 イチゴの甘さが融けて消えたあの日。
 あの時の甘さはきっとわたしの胸の奥でひっそりと息づいていたのだろう。


「ありがとう」
 と言ったら、彼の顔がますます赤味を増したから。
 思わず笑みをこぼしたわたしの心は、ひだまりのような温かさに包まれていた。





END






あとがきと−Side Hideyuki−について






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