真夏の予感











 今日も暑くなりそうだ。

 白いポリ袋をぶら下げて自動ドアを出て行く客の後ろ姿を眺めながら、由布子(ゆうこ)は小さく溜め息を落とした。
 夏は嫌いではない。けれど、暑いのは苦手だ。特に、立っているだけでじわじわと汗が浮き出てくるような、湿り気を帯びたねっとりとした暑さは。
 外の暑さとは裏腹に、店の中は冷房が効き過ぎて寒いほどだった。
 ふと気が付いて、たった今立ち去った客が置いていった五百円玉をコインボックスの中に放り込み、ガチャンと音をさせてレジを閉めた。
 駅前のコンビニでバイトを始めてから一週間になる。
 仕事は土日を含めて週に四日。朝の八時から夕方の五時まで。夏休みの今は、平日も休日も関係がない。何しろ毎日が休日なのだから。
 ほんの少しの期待を込めて始めたバイトだったけれど、慣れてみれば毎日は大学生活のように退屈だった。
 大学生活、といっても一年生の由布子は、まだ三ヶ月ちょっとしか経験していないのだけれど。


「由布子ちゃん、そろそろ休憩にする?」
 接客で中断させられたカウンターの拭き掃除を再開していた由布子は、同じバイトの高木悦子(えつこ)の声で壁の時計を見上げた。時刻は十時半を少し過ぎている。
 このバイトでは一時間の昼休みの他に、十時と三時頃にもわずかな休憩がもらえるのだ。
 由布子が仕事を開始する時間には、出勤途中のサラリーマンやOLの接客ラッシュは終わっているけれど、近くに予備校があるので、九時頃までは接客の列が途切れる事はなかった。接客が一段落した後も、次々に届く商品を棚に並べる作業があるので、午前中の仕事は案外忙しい。
「そうですね」
 伸びをする悦子に頷き返すと、由布子は流しで手を洗い、足元に置きっ放しになっていたカゴを持ち上げた。中には今朝廃棄処分にしたばかりの菓子パンが入っている。
 まだ二時間半しか働いていないというのに、既に由布子はくたくたになっていた。痛む腰をさすりながら、悦子に続いて奥の事務所に向かう。
 事務所内では中年の店長が一人、コンピューターにデータを入力しているはずだ。
「由布子ちゃんったら、まだ若いのにオバさんみたいね?」
「オバさんは酷いですよー。高木さんの方こそどうしてそんなに元気なんですか? コンビニの仕事がこんなにキツイなんて思わなかった……」
「慣れよ、慣れ」
 そう言ってクスクスと笑う悦子に、由布子は曖昧な笑みを浮かべた。悦子は二十代後半の新米主婦で、由布子にとっては頼れるお姉さん的存在の女性だ。
 彼女が言うように、慣れればもう少し身体が楽になるのかもしれないけれど、こんなバイトなど一日も早く辞めてしまいたいというのが由布子の本音だった。仕事は思ったよりもキツイのに、時給は安い。おまけに、もしかしたら…と密かに胸をときめかせていた“新たな出逢い”が期待外れに終わりそうなのだ。女子大に通う由布子にとっては、バイトだけが素敵な男性と出逢う唯一の望みだといっても過言ではなかったのに。
 ……もっとも、会社員や予備校生しか来ない場所柄では、それも仕方がないのかもしれないけれど。


「休憩入りまーす」
 元気良く事務所のドアを開けた悦子に続いて由布子も中へ入ろうとした瞬間、店の自動ドアの開閉を知らせる電子音が大きく鳴り響いた。
 店内に人の姿はなかった。ついさっき由布子が送り出した客が最後だったはずなので、新たな客が来店したのだろう。やっと休めると安堵していた由布子は、タイミングの悪い客に舌打ちしたい気分になる。
「あら、お客さん。わたし行って来ようか?」
「あ、いいです。あたしが行きます」
 モニターを見上げて踵を返した悦子を押し留め、由布子は持っていたカゴを差し出した。
「高木さんは先に休んでいてください」
「あら……」と、遠慮がちにそれを受け取った悦子に笑いかけ、由布子はレジに向かってダッシュする。同時に「いらっしゃいませー」と声を張り上げながら店内を窺うと、棚の向こう側をドリンクコーナーの方に向かって進む頭が見えた。
 客は一人のようだ。カウンターの中に入って荒い息を整えつつ振り返ると、ガラスの扉を開いてペットボトルに手を伸ばす男の後ろ姿が目に入った。服装から予備校生だろうと見当を付ける。それにしては中途半端な時間だが、大方授業を抜け出して来たのだろう。
 とりあえず、立ち読み目当ての客ではないようだ。そんなことを考えつつ、由布子は男の行動をそっと盗み見る。男は順調に惣菜コーナーに移動していた。これならすぐに休憩に戻れそうだと、ほっと胸を撫で下ろす。
 思ったとおりすぐにレジ前にやって来た彼を営業用スマイルで迎え、カウンターに置かれたお茶とおにぎりのバーコードを読み取る。ピッという電子音が、二人の間に無機質に響いた。

「二点で273円になります」
 カウンターの下にセットしてある袋を取るために屈んだ由布子は、ふと視線を感じて顔を上げた。
 途端に、首を傾げて由布子を見つめていた男と視線がぶつかる。
 一瞬、呆けたように見つめ合った二人だったが、ハッと我に返ると、今度は同時に「あの……」と口を開いた。
 台詞が重なったことで、またしても二人は固まってしまう。そして、由布子は自分の胸がドクンと大きく脈打つのを感じていた。
「あの、何か?」
 それでも息をこらえて、動かない男に笑いかける。こうして正面から眺めてみても、男に見覚えはないような気がした。濃紺のポロシャツに色褪せたジーンズ。歳は由布子と同じくらいだろう。良く見るとなかなか整った顔立ちをしている。
(惜しい、目がもうちょっとパッチリしていたら、かなりの高得点だったんだけど)
 頭の片隅で由布子がそんなことを考えているとも知らず、男はおずおずと口を開いた。
「あの、中川さん……だよね?」
 確認するように由布子の胸元の名札にチラチラと視線をやりながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そうですけど……?」
「もしかして、緑ケ丘中学校の出身じゃない?」
「……はい」
 由布子が頷くと、男は大きな溜め息をもらして人懐っこい笑みを浮かべた。
「なんだ、やっぱり! オレ、三年の時同じクラスだった佐藤だけど、覚えてない?」
 嬉しげに身を乗り出してくる男に、由布子の脈拍が急激に上昇する。ドクドクと鳴り響く鼓動が頭に響いて、軽いパニック状態に陥ってしまう。
「ほら、佐藤。佐藤駿一(しゅんいち)だよ」
 答えない由布子に、男が更に畳みかけてきた。
(佐藤駿一? そんな子いたっけ? いたような気もするけど、こんな顔だった!?)
 どんなに記憶を探っても、やはり覚えがないのだ。
 呆然と見つめ返す由布子に、駿一はつまらなそうに口元を尖らせた。
「あれ、忘れちゃったのかよ? 冷たいなぁ……、隣の席になったことだってあったじゃん」
「えっと、あの……ごめんなさい」
 更に身を乗り出してきた駿一を眺めながら、由布子は完全に混乱していた。思い出そうとすればするほど、記憶は曖昧になっていく。
「オレはすぐに分かったのにさ。……なんか、昔より大人っぽくって、キレイになってるけど」
 ハッと瞳を見開いた由布子と駿一の視線が深く絡んだ。由布子にまじまじと見つめられて、駿一の頬がわずかに赤く色付く。
「……って、あれから三年も経っているんだから当たり前だよな。うわぁ、何言ってるんだろう、オレ」
 盛大に鼻をこすってそっぽを向いてしまった駿一の頬が、見る間に赤味を増していった。そして、由布子の鼓動も早鐘のように鳴り響いたのだけれど……。
 ふと、頭の片隅に引っかかるものがあった。
(三年?)
 早まる動悸をこらえて、もう一度しっかりと駿一の顔を観察する。どの記憶のページにも、彼の顔は残っていない。
「あの……、三年の時の担任の先生って、増田先生だった?」
 由布子がゆっくりと尋ねると、駿一は視線を戻し、呆れたように眉を上げた。
「何言ってんのさ、石田ちゃんだろ? 担任の名前も忘れちゃったわけ?」
 石田ちゃん。数学の石田先生。
 ふっと笑みをこぼした由布子を、駿一が不思議そうに覗き込む。
 訝しげな表情を浮かべる彼をしっかりと見据え、由布子は人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「ねえ、佐藤くんが言ってる『中川さん』って、『中川麻実』のことじゃない?」
「うん、そう、だけど……」
 カウンターに乗り出していた身体を徐々に後退させながら、駿一はせわしなく視線を動かした。今度は彼の方が混乱しているようだ。
反対に由布子の方は落ち着きを取り戻しつつあった。
 真相は自分の手中にある。
 そのことが、由布子にわずかな余裕を与えていた。
「しかも、佐藤くんって、今、高三でしょ?」
 にっこり笑って人差し指を立てた由布子を、駿一は探るように見つめ返し、無言で頷いた。
「やっぱりね。あのね、あたしの名前は『中川由布子』。『麻実』はあたしの一つ下の妹よ」
 そう言って、立てた人差し指をビシッと突き付ける。
 と、一瞬の間を置いて駿一が瞳を見開いた。
「えっ、……お姉さん?」
 由布子がにっこり笑って頷くと、口をあんぐりと開けた駿一の頬がまたしても赤く染まっていく。
「あっ、あのっ! すみません、間違えましたっ!」
 そう言うやいなやガバッと頭を下げた駿一に、由布子の唇から思わず苦笑がもれた。
「いいけど、そんなに似てるかなぁ、あたしたち。間違えられたのなんて初めてだよ?」
「いや、その、何だか大人っぽいなぁとは思ったんですけど、卒業以来会ってなかったし、声がとても似ていたもので」
「ああ、声ね。それならうちの両親も時々間違えるよ。電話で、だけど」
 こらえきれずにクスクスと笑みをもらすと、うなだれた駿一の肩がビクッと揺れた。恐る恐るという感じで顔を上げ、気まずそうな視線を由布子に送る。
 その姿がまるで打ちひしがれた仔犬のように思えて、由布子の笑みがますます深くなった。
「あの、ホントに失礼しました。……じゃあ、オレ、もう行きますから」
 由布子と視線を合わせた駿一は所在無げに頭を掻き、もう一度ぺこりと頭を下げた。
 そして、素早い動作で踵を返し、足早に自動ドアへと向かってしまう。
 由布子は呆気に取られて遠ざかる背中を見送っていたけれど、ふとカウンターの上に置きっ放しになっている商品に気付き、慌てて声を張り上げた。 
「あっ、ちょっと、佐藤くん! 待って! 忘れ物!」
 由布子の声で我に返ったのだろう、ハタと足を止めた駿一が勢い良く振り返った。
「うわっ、すみません! そうだ、オレ、買い物に来たんだった!」
 そのままドタバタと駆け寄って、剥き出しになっているペットボトルをむんずと掴む。
「あっ、ちょっと待って。今、袋に入れるから……あれ、お金もらったっけ?」
「ああっ、まだでした! えっと273円ですね」
 レジに表示されている金額を確認した駿一は、慌てた様子でリュックの中をかき回した。
 駿一につられて由布子まで焦ってしまい、袋を三枚もちぎり取ってしまった上に、袋の口が開けられずあたふたとしてしまう。
 更に、駿一の方も財布から小銭を取り出そうとして、見事にそれをぶちまけた。
 チャリン! と、盛大な音がしてカウンターの上をいくつもの硬貨が跳ねる。
 咄嗟に伸ばした由布子の手の上に、駿一の手の平が重なった。

「あっ……」

 まるで別世界の出来事のように、陽気に鳴り響く店内放送。遠くで小さく車のクラクションが聞こえる。
 思わず見つめ合った二人は、次の瞬間、同時に噴き出していた。
 何が可笑しいのか解らなかったけれど、とにかく可笑しくてたまらない。
 ただ、重ねられたお互いの手の感触が、やけに柔らかく感じられた。


「中川さん、ちょっと銀行へ行って来るから、あとを頼むよ。君も今のうちに休憩に入っておきなさい」
 駿一を見送ったまま、ぼんやりと外の景色を眺めていた由布子は、背後から聞こえてきた店長の声で我に返った。
「あ、はい、店長……」
「さっきの子、知り合いだったのかい? 笑い声が事務所まで響いてきたよ」
 曖昧に微笑んだ由布子を不思議そうに見つめ、店長がゆっくりと頷く。
「ところで仕事には慣れたかい?」
「はい、みなさん親切に教えてくれますから」
「そうか、大変だとは思うけれど、頑張ってくださいよ」
「はいっ!」
 明るい笑顔で頷いた由布子に目を細め、「じゃあ行って来るからね」と店長はゆっくりと自動ドアに向かった。軽快な電子音が由布子の鼓膜に心地良く響く。
「店長、外は暑そうですからお気を付けて」
 由布子の声に足を止めた店長が、ゆっくりと空を仰いだ。
「今日も暑くなりそうだな」
 小さく呟いた店長の声が、ウィーンという自動ドアの音と共に由布子の耳に届いた。
 角を曲がって行く店長の後ろ姿を見送りながら、由布子はゆっくりと視線を上げる。そこに広がる夏の空。
 こんなに青い空は見たことがない、と思う。

『また来てもいいですか?』
 はにかんだ笑みを浮かべた駿一の顔が、その青に重なった。

今年の夏は、暑くなりそうだ。



END


2004.7.31



あとがき






この作品は「第5回うおのめ文学賞」掌編部門に参加させていただきました
応援してくださったみなさま、ありがとうございました

 





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Photo : 空色地図