Sweet sweets, Bitter hearts





 ふと、空を見上げてみた。

 シュークリーム。
 唐突に、そんな考えが浮かぶ。
 ふわんとしていて、こうばしくって、とろりとしたクリームが入っているシュークリーム。

 ――― そうだ、シュークリームなんていいかもしれない

 あたしの頭の中は、ぱふんとした噛み心地のシュークリームでいっぱいになっていた。
 ほんのり焦げた薄皮の香り。
 濃厚なカスタードクリームはとろけるように甘く。
 そうと決まれば……。
 あたしは記憶の中からこの付近の本屋さんのデータを引っ張り出す。ここからだと、駅に隣接したショッピングビルが一番近いかもしれない。
 未だに携帯を握ったままだった事に気が付いて、二つに畳んで鞄にしまう。チラリと目に入った液晶画面はバックライトが切れて暗くなっていた。
 胸の内がざわめいたけれど、軽く頭を振って意識的に大きく一歩を踏み出した。
 どんよりと落ち込んでしまいそうになる心を蹴っ飛ばすようにズンズン歩く。
 休日の午前中の駅前広場には、それなりの人出があったけれど、目もくれない。
 前方を睨みつけて足早に突き進むあたしの気迫に、周りの人々が恐れをなして道をあけた事にも気付かないほど、頭の中はシュークリームの香りであふれていた。




          ※ ※ ※




 ホームで電車を待ちながら、あたしは先ほど購入した本を鞄から取り出した。

 お菓子作りコーナーの棚には宝石みたいなスウィーツの表紙がずらりと並んでいた。
 艶やかに熟れた真っ赤な苺がのっかったショートケーキ。黒く輝くチョコレートケーキ。モザイク模様のクッキーにぷるんと揺れるフルーツゼリー。
 とても魅惑的なそれらに目を奪われながら、あたしは比較的初心者向けと思われる本に手を伸ばした。
 『簡単』とか『はじめて』などの文字が躍っている本だ。その中からお目当てのシュークリームが載っているものを探し、失敗しやすいポイントについて丁寧に解説してある本を選び出した。

 書店の中でもチェックしたけれど、もう一度必要な材料や道具の部分に目を通す。
 材料は、薄力粉、無塩バター、塩、水、牛乳、卵、以上。
 薄力粉っていうのが良く分からない。普通の小麦粉とは違うのだろうか? スーパーに行ったらしっかりチェックしなければ。他の物は家にもありそうだったけれど、念の為に買って帰る事にする。
 何気なくページをめくると、そこにはカスタードクリームの作り方が載っていた。
 そうだ、クリームを忘れてはいけない。
 必要な材料は、薄力粉……? どうして粉が必要なのかわからないけど、まあいいか。あとは、砂糖、牛乳、卵黄、無塩バター、ラム酒? 酒屋にも寄らないといけないのか……、バニラエッセンス、生クリーム。
 薄力粉、砂糖、牛乳、卵、バターは両方に共通だし、材料だけ見ると初めてでも楽勝のような気がする。
 いっその事、真っ白い生クリームの上に苺がのった大きな丸いケーキに挑戦したって大丈夫かもしれない。
 そう思ってページをめくり、ショートケーキの材料に目を通す。すると、丸型という型が必要な事が分かった。これは家にはないから新たに購入しなければならない。財布の中身を考えると、そこまでするのはちょっと辛いような気がするので、やっぱり初志貫徹でシュークリームに挑戦する事にした。
 やがてやって来た電車に乗り込んでからも、あたしは意識的にシュークリーム作成の手順に没頭し続けた。
 それが、眼で本の字面を追っているだけだったとしても。




 予定よりずっと早く帰ってきたあたしを見て、お母さんはひどく驚いた。
 それはそうだろう。あたしがウキウキと家を出たのは、今から1時間ちょっと前の事なんだから。
 夕飯も断って上機嫌で家を出た娘が、昼食の時間よりも前に帰って来たなら、どこの母親だって驚くに違いない。
「どうしたの、穂香(ほのか)? 稔(みのる)くんと喧嘩でもしたの?」
「別に、喧嘩なんてしていないよ」
 我ながら穏やかに答えられたと思ったんだけど、さすが母親、娘の微妙な雰囲気の変化まで嗅ぎ取れるらしい。
「あら、それにしてはご機嫌斜めね。……フラれちゃったとか?」
 それに、オバさん特有の好奇心の強さ。
「なっ、振られる訳ないでしょう! あんな奴、こっちから振ってやるわよ!!」
 できるだけ心を波立たせないように努力してきたのに、付け焼刃の平常心はお母さんの一言で脆くも崩れ去ってしまう。
 せっかくの努力が水の泡になってしまった事と、憎たらしい稔の顔を思い出したせいで、胸の内に燻ぶっていた炎が一気に燃え上がるのを感じて、あたしは持っていたスーパーの袋をギュッと握り締めた。
「あたし、これからシュークリームを作るから、キッチン借り切るね。終わるまで絶っ対に入って来ないでね!!」
 あたしの剣幕に、お母さんは目をぱちくりさせた。
「え? ちょっと、作るって、あんたが?」
「そうよ、文句ある?」
「文句っていうか、あんたシュークリームなんて作れるの?」
 お母さんの疑問はもっともだろう。何しろあたしはシュークリームどころかクッキーだって焼いた事はないんだから。かろうじて作った事があるのは、片面が見事に炭になった恐ろしく苦いホットケーキだけだ。
 口の中に広がる嫌な苦味を思い出して一瞬不安になったけれど、あたしは自分の鞄の中に入っている物の存在に後押しされ、不敵な笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、今日のあたしにはこれがついているんだから」
 ジャジャーンと効果音でも聞こえてきそうな勢いで本を取り出し、お母さんの眼前に突き付ける。
「『サルでも焼けるお菓子の本 ―― 超ブキッチョさんのあなたへ』? いくらなんでもサルに火は使えないんじゃないの?」
「もう、うるさいなぁ、物の例えでしょ! とにかく、これがあるから大丈夫なのっ! それじゃあ、夕方までキッチンに入って来ないでね!!」
 鼻息も荒く横をすり抜けたあたしの背を、「え、ちょっと、私たちのお昼ご飯は……?」という困ったようなお母さんの声が追いかけて来たけれど、歩調を緩めずに突き進み、バタンとキッチンへ続く扉を閉めた。
 ……その扉も、結局はリビングへ戻るお母さんに開けられてしまうのだけれど。




 キッチンに入ったあたしは、ひとまず床にスーパーの袋を下ろし、買って来た材料を一つずつシンクの隣の調理スペースに並べた。

 薄力小麦粉(用途のところに天ぷら・お菓子って書いてあったので多分これが"薄力粉"の事だと思う)、無塩バター(どんな味がするんだろう?)、牛乳(冷蔵庫に常備されているけど念のため)、卵(これも同じく)、ラム酒(なんとお菓子の材料売り場に小瓶が売っていた、ラッキー)、バニラエッセンス(この香り大好き)、生クリーム(動物性の物は高かったのでケチって植物性にしてしまった。大丈夫だよね?)、以上。

 塩と砂糖と水はキッチンにある物を失敬させてもらう事にした。
 築20年の我が家のキッチンは、ありがたい事に"対面式カウンター"なんていうオシャレなものは付いていないので、狭いながらも壁一枚隔てただけの隣のリビングからは、独立した空間になっていた。
 いつもは冷蔵庫のペットボトルを取りに来るくらいしか足を踏み入れないこの場所で、あたしは買って来た材料を前にして腕を組んだ。
 まずは、何から始めればいいんだろう?
 恥ずかしながら大学1年生にもなって、あたしはほとんど料理さえ作った事がなかったのだ。
 高校時代の調理実習の手順を思い浮かべる。
 そうだ、調理を始める前には手を洗ってエプロンを付けなければ。それに頭には三角巾も。
 その事に思い至って、あたしは慌しくキッチンを出ると、階段を駆け上って自分の部屋に飛び込み、クローゼットの奥からよれよれになったエプロンと三角巾を引っ張り出した。それらを身に纏い、今度は階下の洗面所へ駆け込んでハンドソープでしっかりと手を洗う。
 すっかり身支度を整えてキッチンに戻ると、あたしはとりあえず買って来た本を広げて最初の部分を読み直した。
 電車の中で一通り読んだはずなのに、手順は全く頭に入っていなかった。
 それもそうだろう、あたしの頭の中には能天気な稔の声がぐるぐると木霊していたのだから。
「悪りぃ、穂香……」という、たいして悪びれた様子もない稔の声が蘇えって、あたしはブンブンと頭を振って憎たらしい幻聴を振り払った。
 今はシュークリーム作成の作業に集中しなければ。
 気を取り直して手順を追う。
 まずは下準備だ。天板にオーブンシートを敷いて、薄力粉をふるう。
 ……ふるう? ああ確か、ザルみたいなのに粉を入れてパンパン揺するんだっけ。
 ちょっと自信がなかったけれど、とりあえずそれらしき物を探してシンクの下の扉を開けてみた。
 続いて頭上の棚も。
 お目当ての篩(ふるい)が見つからなくてガチャガチャしていると、音を聞きつけてお母さんが顔を覗かせた。
「穂香? 何探しているの?」
 不安げな顔に思わず苦笑が漏れる。そういえば、キッチンはお母さんの大事なお城なんだった。
 どうやら、あたしに荒らされる事を心配しているらしい。
「うーんとね、篩と、木べらと、お鍋と、ボウルと、……ああ、あとオーブンの天板?」
 あたしのあやふやな様子に、お母さんはサッと本を取り上げて暫らく紙面に視線を走らせた。
 それから納得したように頷いて、迷うことなくあちこちの棚から必要な道具を揃えてくれた。
「さあ、これで必要な物は揃ったわよ。霧吹きはあとでリビングから持って来てあげるから、もう他の場所は一切触っちゃ駄目よ?」
「……はい」
 笑顔のお母さんから、目に見えないオーラのようなものが立ち昇るのを感じて、あたしは小さく頷いた。




 甘かった、かもしれない。
 お菓子を作るのって、思ったよりもずっと重労働だ。
 なんとなくケーキを焼いたりするのって、わた飴みたいにフワフワとして可愛らしいイメージの女の子に似合うと思っていたけれど、これは体育会系の筋肉ムキムキの男にこそ相応しいような気がする。
 額に汗を浮かべて生地の入った鍋をかき混ぜていたあたしは、フリフリのエプロンを付けた体育会系男子を想像してしまい、痺れた右腕から更に力が抜けてしまった。
 二の腕の筋肉はパンパンに張っていた。
 鍋にバターと水、牛乳、塩を入れて火にかけるのまでは楽勝だったのだ。鼻歌混じりにお鍋をかき回し、お菓子を作るのって案外楽しいじゃん……なんて思っていたのだけれど。
 問題はバターが溶けて、沸騰してからだ。ふるった粉を一気に入れて火を止めたら手早く木べらでかき混ぜる。そこまではまだ良かった。それをもう一度弱火にかけて、練りだしてからは……。
 このドロドロとした物体が"もちっ"とした感触になるまで練らなければならないのだ。しかも、木べらで混ぜて。
 左手で鍋の取っ手を持って、右手で木べらを動かし続ける。ちょっとでも手を止めたら焦げ付いてしまいそうで、気の休まる時がない。水っぽい生地が跳ねてレンジの周りを汚したけれど、あたしは必死で鍋をかき回し続けた。



 あたしと稔は高校時代からの付き合いだ。
 高2の修学旅行の時に、あたしから告白をした。あれは秋の事だったから、卒業までの1年半の間、それなりに楽しい時間を過ごしたんだけれど。
 あたしたちの間に暗雲が立ち込め始めたのは、受験シーズンの頃からだったのかもしれない。
 あたしは特に志望する大学もなかったので、当然のように稔と一緒の大学に願書を提出した。
 志望する学部は違ったけれど、同じ構内にいれば会える時間も多いだろうと思ったのだ。
 けれど、稔の第一志望の大学に合格したのはあたしだけだった。
 それでも、あたしにとってその大学の志望動機は稔だけだったから、そこを蹴って稔のいる大学に進学する事に異存はなかった。稔のいない大学になど、なんの未練もなかったのだ。
 しかし、稔は坂を転がり落ちるように、次々と試験を落ちていった。結局、彼が崖っぷちでしがみ付けたのは、二次募集で願書を出した大学だった。この大学に、稔はあたしに内緒で願書を提出していたので、試験を受けていないあたしには、もうどうする事もできなかったのだ。
 卒業式を終えて、桜の季節になると、あたしたちは別々の大学へ進学した。
 稔のいない彼の第一志望の大学へと。



 生地がもちっとしたら、火から下ろして溶いた卵をちょっとずつ加えて手早く練る。
 この卵の加え方がポイントらしい。初心者のあたしには加減が良く分からなかったけれど、とにかく少量ずつ加えてひたすら練った。
 ……そして、腕がだるい。
 こんな時にはあのアホの事を考えるのが一番かもしれない。
 あたしは木べらを握り直して、頭の中で稔の名前を念じてみた。

 ――稔のアホー! 稔のバカー! 稔のオタンコナスー!

 うん、いい感じに力がみなぎってくる。

 ――稔の鈍感! 稔の意地悪! 稔の、稔の……

 ぐいぐい練り込んでいたけれど、不意に目の前が滲んで透明な液体がぽたりと鍋の中に落下した。
 ハッとして左手で目元を探る。
 粉だらけの指先に、涙の痕が付いた。
「……稔なんて、大っ嫌い」
 ぽつりと呟いたら、また一粒、大粒の涙が鍋の中に消える。
「ふふ、これじゃ、お塩の入れ過ぎになっちゃうじゃない……」
 続いて落下した何粒かの涙に辟易して、あたしは袖口で目元を覆った。
 泣きたくなんかないし、泣く理由だってないのに、どうして涙がこぼれてくるのだろう。
 そう、泣く理由なんてないのだ。
 今日はずっと楽しみにしていたデートをドタキャンされただけ。
 嫌われた訳でも、振られた訳でもないのに。
 ただ、大学生になってから会える時間がぐんと減って、久々のデートに浮かれていた自分がバカみたいなだけだ。
 たったそれだけの事だ。
 胸の奥底で渦巻く感情に気付かない振りをして、あたしは緩んできた生地を練り続けた。





          ※ ※ ※





 机の上に出しておいた携帯が鳴ったのは、予想通り5時をちょっと過ぎた頃だった。
 あたしはぐったりとベッドに投げ出していた身体を起こして、携帯を取り上げる。着信を知らせる小さなディスプレイには「稔」の文字が浮かんでいた。
「もしもし」
 不機嫌な感情丸出しのあたしの声に、電話の向こうの稔が気まずそうに息を呑むのが判った。
「……今から?」
 これもまた予想通りの展開なのに、あたしはわざとうんざりとした声を出した。
「え、いつもの公園?」
「うん、仕方ないなぁ……」
「それじゃ、あとで」
 渋々了解した振りをしたけれど、こうなる事は最初から計算済みだった。計算違いは、この身体のだるさだけだ。
 お菓子を作る作業はもちろん、それ以上に、もの凄い惨状になってしまったキッチンの後片付けで、激しく体力を消耗していたのだ。
 ギシギシいいそうな身体に活を入れ、あたしは用意しておいた紙袋を持って部屋を後にした。



 稔が指定したのは、高校の頃、良く2人で待ち合わせた大きな公園だった。
 ここはどちらの家からも同じくらいの距離で、待ち合わせにはもってこいだったのだ。
 西日の射し始めた夕暮れの街を、勢い良く自転車を漕いで通り抜けて行く。
 街はあの頃と何も変わらないのに、あたしたちの関係だけがどんどん変わっていくような気がした。
 あの場所で、稔はあたしに何を告げる気なんだろう。
 大学に入ってから、すれ違いばかりのあたしたち。
 特に執着していた訳でもないのに、彼の憧れだった大学に通うあたしを、稔はどう思っている?
 あたしたちの仲は、あの傾きかけた太陽と同じなのかもしれない。
 ただ静かに終焉を迎えるだけ。
 諦めに似た気持ちで、あたしはそんな事を考えた。



 約束の公園の入り口で自転車を降りて、カラカラと押しながら奥に進む。
 僅かに赤く染まった大気がゼリーのように重く感じられて、あたしの足取りは重かった。
 ほんの数ヶ月前まで、あたしたちの指定席だった大きな樹の陰のベンチに辿り着いた時、そこには既に稔の後ろ姿が見えて、あたしは思わず足を止めた。
 けれども、自転車の音であたしの到着に気付いたらしい稔に目ざとく発見されてしまった。
「よっ、穂香。今日は急なバイトが入っちゃって、悪かったな」
 振り向いた姿勢のまま、爽やかな笑顔を浮かべる稔。
 さやさやと木々の間を通り抜ける風が、彼の長めの前髪を揺らす。
 あたしはそんな稔の顔を直視できなくて、自転車のハンドルをぎゅっと握ってうつむいた。
「穂香? どうした? ……ひょっとして、スッゲー怒ってるとか?」
 黙り込むあたしに、稔が恐る恐るといった感じで声をかけてきた。
 そんなに怒っている訳ではなかったけれど、そう言われると、忘れていた苛立ちがメラメラと燃え上がってきてしまう。
 あたしはゆっくりと視線を上げて、こちらを見つめる稔の瞳を睨み付けた。
「怒ってる? 怒ってるに決まってるでしょっ!!」
 思わず大声を出すと、稔がビクリと肩を竦めた。
「わっ、ごめん、マジでごめん、穂香さま! 俺が悪かった!!」
 そして、両手を顔の前で合わせて、上目遣いにこちらを覗き込んでくる。
 おどけたようにも見えるその仕草に、あたしの怒りはみるみるしぼんでいってしまった。
 元々怒りの感情は、大した割合を占めていた訳ではないのだ。
 黙ってしまったあたしを不審に思ったのか、稔が立ち上がってこちらに近付いて来る。
「穂香?」
 一歩、また一歩。
 あたしは息を呑んで、近付いて来る稔の姿を凝視し続けた。
「……穂香?」
 どうしよう、逃げ出したい。
 これなら自分を騙してでも、怒りの炎を持続させておいた方がずっとましだったかもしれない。
 怒りの裏にある感情なんて気付きたくもないのに。
 あと2、3歩の位置までやって来た稔が、自転車の向こうから不思議そうにあたしの顔を覗き込む。
 その仕草に反射的に顔を逸らした。
「穂香? 何むくれてるんだよ? 悪かったって言ってるだろ」
 優しい声。
 こんな時なのに、あたしは改めて稔の声が好きだと思った。
 耳元で稔の溜め息が聞こえ、再びあたしの顔を正面から覗き込んでくる気配がする。
 見ないで欲しい。今、あたしは酷い顔をしているのに。
 堪らなくなったあたしは、思わず自転車を力いっぱい稔の方に押しやった。

「おわっ!?」

 稔の叫び声にガシャンと自転車が倒れる音が重なる。
 機敏な動作で飛び退った稔とあたしの間に、倒れた自転車のタイヤの音がカラカラと響いた。
「何すんだよ、穂香! 危ないじゃないか!!」
「稔のバカッ! どうして避(よ)けるのよ!?」
 間髪入れずに怒鳴り返したあたしに、稔が驚いたように目を見開いた。
 あたしは感情が昂ぶって、ハアハアと肩で息をしてしまっていた。息が苦しくて、目に涙が滲んでくる。
「どうしてって、普通、避けるだろ? 当たったら痛いじゃん」
 多少落ち着きを取り戻したのか、稔の口調はいつもののんびりとしたものに近かった。
 黙り込むあたしを窺いながら、自転車を起こしてスタンドで停める。勢いで飛び出してしまった紙袋も、拾ってカゴの中に収めてくれた。
 あたしはそんな稔の様子を呆然と見つめていた。
 頭の中が混乱して、どうしたらいいのか分からなかったのだ。
 すべての作業を終えた稔が、ゆっくりと顔を上げてあたしに視線を向ける。その瞳からは表情が読み取れなくて、背筋に微かな震えが走った。
「穂香? どうした、何かあったのか?」
 感情を押し殺した声があたしを包む。
 稔は自転車を回ってあたしのすぐ前まで歩いて来た。
「穂香?」
 その声に微かな苛立ちが滲み出ているような気がして、あたしは思わずうつむいた。
 けれども、そんなあたしの顔を、稔が両手で挟んでしっかりと仰向かせる。
 覗き込む稔の瞳に浮かぶ強い光が、あたしの心を絡め取った。

 不意に胸の中が静寂に満ちる。
 ぐるぐると渦巻いていた頭の中も、薄ぼんやりとした白い霧がすべてを呑み込んでいった。
 思考は働かないけれど、妙にクリアーな世界。
 無意識のうちに、あたしの口から言葉がこぼれ落ちた。
「稔……。あたしの事、どう思ってる?」
「え?」
「あたしは、もう、稔にとって、嫌な事を思い出させる存在でしかないの……?」
「は?」
 木々をざわめかせた風が、あたしたちの間を吹き抜けていく。
 両頬を包み込まれているために、あたしは微動だにせず長身の稔を見上げ続けた。
 どんな表情の変化も見逃さない。
 どんな声音も聞き逃さない。
 暫らくの間、あたしたちは無言でお互いを見つめ合った。



「クッ……」
 静寂を破ったのは、稔の笑い声。
 一瞬、呆気に取られたあたしの眼前で、稔はみるみる頬を緩めていった。
「アハハッ、なんだよそれ!」
「ちょっ……! 笑い事じゃないでしょう、稔のバカッ!!」
「さっきからバカバカ言ってるけど、バカは穂香の方だろ?」
 稔はあたしの頬に添えていた手を放し、片手でクシャリと自分の前髪をかき回した。
「穂香、お前、何が言いたい? 嫌な事って何だよ?」
 その表情とは裏腹に、細められた瞳は笑っていないような気がして、あたしはコクンと息を呑んだ。
 昂ぶった感情があっという間に退いていき、言葉を発する事さえ躊躇ってしまう。
「だって、あたし……、あたし、怖いの……。最近、どんどん会う機会が減ってきているし、このまま、稔と駄目になっちゃうんじゃないかって……凄く怖くて……不安……」
 稔の視線が痛くてあたしは眼を逸らした。
 無言の時間がやけに長く感じられる。

「穂香が俺に、嫌な事を思い出させるから?」

 返って来たのはとても静かな声だった。
 今までずっと見ないようにしてきた胸の奥の本音を言葉にしてしまった事で、あたし自身も呆然としていた。
 微かに身体が震える。


 そう、あたしはずっと怖かったのだ。
 大学が別々になり、稔には稔の、あたしにはあたしの生活が始まった。
 それは決して交わらない、別々の空間。
 高校の頃は、休み時間も放課後もいつでも一緒に過ごすのが当たり前だったのに、最近は稔がバイトを始めた事もあり、会う時間を作るのが困難になってきていた。
 徐々に、お互いの不在に慣れてきているあたしたち。
 その事にあたしは内心焦っていたし、淋しくも、悲しくもあった。
 それなのに、稔は何も考えていないように見えた。
 休日はできるだけバイトを入れないよにしているようだったけれど、今日のように急な頼みを引き受けてしまう事も何度かあったのだ。
 その度に、あたしの不安は増した。もしかしたら、稔にとって、もうあたしはどうでもいい存在になってしまったのかもしれない……そんな考えが胸の中で渦巻いた。


 稔の問いに、あたしはゆっくり頷いた。
 頬に添えられていた手は外されているのに、まるで押さえ付けられているかのようにぎくしゃくとした動きだった。
「だって稔は、あたしを見る度に、受験に失敗した事を、思い出すでしょう……? それに、あたしは今の大学にどうしても入りたかった訳でもないし。……だから、あたしの事が鬱陶しくて、会うのを避けているんじゃないの?」
 恐怖に押し潰されそうな気がして、あたしはギュッとこぶしを握った。
 だけど、そろそろ自分の限界が近い事も解っていたのだ。稔の本当の気持ちを聞かなければ、ここから一歩も踏み出せない。
 貼り付けたような笑みを浮かべていた稔が、不意に真面目な顔をした。
「それ、本気で言ってるのか?」

 遠くでカラスの鳴く声が聞こえる。
 吹きぬける風があたしのスカートを揺らした。

「稔、あたしは……」
 涙が込み上げてきそうになって、唇を噛みしめる。今は絶対泣きたくないのに。
 稔は、あたしをじっと見つめたまま、大きく息を吐いた。
「だとしたら、バカはやっぱりお前だよ」
「え……?」
 視線の先で、稔がゆっくり微笑んだ。
 そして、次の瞬間、いきなりあたしの両肩を掴んで身体を折り、、盛大な溜め息をこぼした。
「えっ、稔?」
「あー、緊張した。穂香、お前なぁ、勝手な思い込みで落ち込むのは止めてくれ。心臓に悪い」
 急な展開に付いて行けず、あたしは唖然として稔の後頭部を見つめていた。
 肩に掛かる稔の重さが心地良くて眩暈を覚える。
「それになぁ、俺はそんなに狭量な男じゃないぞ」
 顔を上げた稔は、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
 あたしと目線の高さを合わせて至近距離から覗き込んでくる。
「稔……」
「そりゃあ、志望校全部落ちた時にはショックだったけど、俺さ、今の大学、結構気に入ってるんだ」
 左手はあたしの肩に置いたまま、右手の指にそっと髪を絡ませる。
 その感触に、あたしの鼓動が高鳴った。
「だけど、最近あんまり会えないし、今日だってドタキャン……稔は不安じゃないの?」
「穂香はそんなに自分の気持ちに自信がないのか?」
「え?」
 質問の意味が解らなくて、あたしはじっと稔の瞳を見つめ返した。
 稔は屈めていた身を起こし、両腕を空に向けてうーんと伸びをした。
「俺は不安じゃないよ。どんなに離れたって自分の気持ちが変わらないのは、俺自身が一番知っているからな」
 その答えが更にあたしの混乱を深める。
 稔が何を言っているのか解らない。
「そりゃあ、あたしだって稔に対する気持ちは変わらないけど……、そうじゃなくて、あたしが不安なのは稔の気持ちなんだけど」
「は? 俺?」
 今度は稔が驚く番だった。
 キョトンと瞳を見開いた稔に、あたしは大きく頷いてみせた。
「そう、稔。だから、稔の場合、会えない事であたしの気持ちが離れていかないか、不安になったりしないの?」
「全然」
 即答だった。
 噛み合わない会話に、あたしは暫し絶句した。
「そもそも、そんな事で不安を感じていたら、ドタキャンなんて無謀な事しないだろ?」
 あっけらかんと笑う稔に、頭の中がくらくらする。
 つまり、稔はあたしの気持ちが離れていくなんて、考えた事もないらしい。
 自信家、というより楽天家? それさえ超えているような気がするけれど。
「一体、その自信はどこから来るわけ?」
「え、だって俺、穂香のコト信用してるもん。お前は違うのかよ?」
 真っ直ぐな笑顔に、あたしは微かに狼狽した。
「あたしだって……信じたい。稔を、信じたいよ、だけど……」
「だったら!」
 泣きそうになったあたしを、稔がぐいっと引き寄せる。
 そのまま身を屈めてこつんとあたしの額に自分の額をぶつけた。
「だったら、俺を信用しろよ。俺は絶対、穂香を裏切ったりしないから」
 そう言って、あたしの瞳を覗き込み、ふっと笑う。
「分かった?」
 あたしは小さく頷いた。
 次の瞬間、満足げな笑みを浮かべた稔が傾けた顔をそっと寄せてきた。
 軽く触れるだけの、優しい優しいキス。
 一筋の光が闇を祓うように、凝り固まった不安がとけていく。
 あたしはそのまま稔の肩に頬を寄せた。
 少し早めの心臓の音が、トクントクンと耳に響いて気持ちがいい。
 同じようにあたしの髪に顔を埋めていた稔が、ふと顔を上げてくんくんとあたしの頬の辺りを嗅いできた。
「あれ、穂香。なんだか甘い匂いがする」
 その言葉で、あたしは持って来た紙袋の存在を思い出し、にっこりと微笑んだ。
「今日ね、稔にドタキャンされた腹いせに、お菓子を作ったの。食べる?」
「へー、そうなんだ。穂香がお菓子作りねぇ……」
 さっき自転車を倒した時に紙袋も飛び出てしまったけれど、きちんと封をしておいたお陰で中身は無事だったようだ。
「食べるでしょ?」
 カゴから紙袋を抜き出しつつ振り返ると、稔は少し浮かない顔をしていた。
「俺、甘い物って苦手なんだよ……」
 先程までの強気な態度が嘘のように情けない顔をする稔の腕を引っ張って、木陰のベンチに連れて行き並んで座る。
「大丈夫。これ、甘くないから」
 にこにこと袋を開けるあたしを、稔はちょっと不審そうな顔をして見つめていたけれど、一緒に入れてきた紙ナプキンでシュークリームを包んで差し出すと、恐る恐るといった感じで受け取った。
 そして、白い包みからのぞく茶色い皮をまじまじと観察する。
「えっと、これってハンバーガー?」
「どこがハンバーガーよ! シュークリームに決まってるでしょう!!」
「ああ、そうなんだ。あまりにも平べったいから、何だろうって悩んじゃったよ」
 稔の素朴な疑問に、あたしは頬が熱くなってくるのを感じた。

 そうなのだ。
 苦労して練った生地を天板の上に搾り出し、何とか焼く段階までいったのは良かった。
 けれど、一回目の焼きは、どんどん膨らんでくるシューの誘惑に勝てなくて、思わずオーブンの扉を開けて中を覗いてしまったのだった。
 その途端に、ふっくらと焼けていたシュー皮はあっという間にぺっちゃんこになってしまった。
 二回目の焼きは、一回目の失敗を踏まえて、膨らんだまま暫らく様子を見ていたところ、温度を下げるのを忘れて見事に炭と化してしまったし。
 三回目、最後の焼きで何とか形になったのだけれど、お菓子を作るのって本当に難しいと思う。
 もちろん、それらは気を付けるべきポイントとして、太字で注意書きされていたのだけれど。

「いいから、早く食べてみてよ」
「マジで甘くない?」
 無言で唇の端を上げて見せると、稔は観念した様子でシュークリームを口に運んだ。

 ガリッ。
 ガリッ、ボリッ、ボリッ、ボリッ……。

 稔の咀嚼と共に響き渡る不穏な音。
「ゲッ、硬え〜。これホントにシュークリームかよ?」
 口をもぐもぐさせながら目を見開く稔の姿に、あたしは笑いをこらえるので精一杯だった。

 ガリッ。
 ボリッ、ボリン、ボリッ……。

 文句を言いつつも、稔は食べるのを止めなかった。
 実は、稔が食べているのは一回目の焼きでしぼんでしまったシュー皮を使ったものなのだ。
 そして、もう一つ、ある仕掛けが……。

 残りの大きな塊を一口で頬張った稔が、突如動きを止めた。
 噛む事も飲み込む事もできないまま、目をまん丸に見開いてあたしを見やる。
「……ぼのが……、おばえ、なじ、入れだ?」  (穂香、お前、何入れた?)
 陸に上がった魚のように口をパクパクさせた途端、稔の瞳にぶわっと涙が滲んでくる。
 慌てた様子で口の中の物を持っていた紙ナプキンに吐き出して、恨めしそうな視線をあたしに向けた。
「……からし、入れただろ?」
「大正解」
 澄まして答えると、稔は脱力した様子でベンチの背もたれに寄りかかった。
「お前なー、いくらなんでも、これはやり過ぎだろう……」
 からしがよっぽど効いたのだろう、浮かんできた涙を袖口で拭いながら、ぐったりと呟く。
 そう、失敗作のシュー皮には、カスタードクリームと一緒に大量のからしを入れておいたのだ。
 紙袋の中から買っておいたペットボトルのお茶を取り出しつつ、あたしは口元が緩んでくるのを抑えられなかった。
「ホントに甘くなかったでしょ? はい、お茶だよ」
「……サンキュー」
 差し出されたお茶を弱々しく受け取って、ひとくち、ふたくち口にすると、人心地付いたのか、稔は後ろに寄りかかった姿勢のまま、グイッとあたしの腕を引っ張った。
 突然の事に、あたしは稔の胸の上に倒れ込んだ。
「みの、る?」
「全く、お前って奴は……」
 そのままぎゅうぎゅうと抱き締めてくる稔の腕の力に、あたしの身体中の血液が凄い速さでドクドクと巡る。
「まるで、びっくり箱だ。こんなに突拍子もない女、簡単に手放す訳がないだろう?」
「それって、褒めてないよ……」
 抗議の言葉を口にしたけれど、あたしの全身は甘い幸福感に包まれていた。

 稔の胸にもたれたあたしの目には、赤く染まった夕暮れの空が映る。
 今日最後の光を投げかける大きな太陽。黄金色の光に、空も、木々も、あたしたちも染め上げられる。
 なんて、やさしい光。
 さっきまであんなに物悲しく感じていた黄昏の空気が、今はこんなにあたたかい。

「ねえ、稔……。あたしを裏切らないって言ったでしょう? あの言葉、信用してもいいのかな」
「もちろん」
 何の迷いもなく紡がれた言葉に、あたしは胸の中が熱くなるのを感じた。
 稔の腕の力が、更に強まる。
 温かい胸に頬を擦り付けて、あたしは瞳に映る空に向かってうっとりと囁いた。
「それじゃあ、もしも……、もしも稔があたしを不安にさせたら、今度はわさび入りの鯛焼きを作って来るからね」
 あたしの言葉に、稔の身体がピクリと揺れる。
「止めてくれ……。大体お前、"わさび入りの鯛焼き"っていう発想はどこから湧いて来るんだよ?」
 心底嫌そうなその声に、あたしは思わず笑みをこぼした。
 稔の胸から身を起こし、真っ直ぐに瞳を覗き込む。
「内緒」

 稔の背後には暮れなずむ夕空。朝の空とはがらりと表情を変えた、その模様。

 笑うあたしにつられるように稔も苦笑いを浮かべ、あたしの頭をくしゃくしゃっとかき回した。
「そうだ、稔。ちゃんと成功したシュークリームもあるんだよ。口直しに食べてみる? クリームの甘みも抑えてあるし……」
 言いながら、紙袋に向かって伸ばしたあたしの手を稔が掴んだ。
 驚いて見上げたあたしに、意味ありげな笑みを浮かべる。
「それより、今はもっと甘いのが欲しいな」
「え?」
 意味が解らなくて小首を傾げたけれど、稔の瞳に浮かぶ光の色にトクンと胸が高鳴った。

「とびっきり、甘いのを……」

 悪戯っ子のように微笑んだ稔が、そっと頬を寄せてくる。



 さっきよりも、ずっとずっと深いキス。
 それは、バニラの甘い香りがした。




END



あとがき






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Photo : 空色地図