不幸日和 ― unhappiness? ―











 ―― あたしは今日、二十歳になった。

 開店前の中華料理店の軒下から雑踏を眺める。夏の名残り、秋の走りの日射しの中を行き交う人の群れ。若いのや年取ったのや、男や女や、整ったのや醜悪なのや。入れ物はさまざま。その大きさも古さも形も。
 幸せそうに微笑むカップル。お腹の大きな若い女。そわそわと雑踏の向こうを見つめる人待ち顔の男子高生。
 みんなみんな、なんて幸せそうなんだろう。
 あたしはうっとりと微笑んだ。のん気な人間。誰を選んだってもの凄く面白い事になりそうだ。幸福そうに輝く魂が闇に落ちる。その瞬間の歪んだ顔を想像すると、えもいわれぬ快感がゾクゾクと背中を走った。人の不幸が何よりのご馳走。絶望に打ち震える顔がどんな時より一番綺麗だと思える。
 だって、あたしは悪魔だから。
 魔族は二十歳の誕生日を迎えた日、成人の儀式をする。それによって背中には蝙蝠のような美しい羽が生え、強大な魔力が湧き出てくるのだ。人間と魂の売買契約を結べるようにだってなる。
 といっても、誰もがすんなりと儀式を執り行ってもらえるわけじゃない。まずはこうやって一人で地上に放り出される。生まれて初めて降り立った地上で、初めての獲物を見つけ、魔力を使わずにそいつを不幸のどん底に突き落とさなければならない。魔力、といっても今のあたしにはチンケな力しか備わっていないのだけれど。
 それが成人の儀式を受けるための、いわゆる試験だ。今日中に誰かを絶望の淵に放り込む事ができたら合格。できなかったら……。 あまり考えたくないけれど、下等魔族としてこれから先の何百年かを生きなければならない。
 あたしには二人の姉がいる。どちらも優秀な成績で成人の儀式を通過した。特に下の姉の方は、狙った獲物を絶望のどん底に突き落とした上に自殺させる、という素晴らしい手腕を発揮し皆の称讃を浴びた。そんな姉たちの偉業が大きなプレッシャーとして三女のあたしに圧し掛かってくる。実はあたしが一番のおちこぼれなのだ。口には出さないけれど、両親も我が家から下等魔族を出す事になるのでは……と危惧している事をあたしは知っていた。
 あたしはぼんやりとショーケースに映る自分の姿を眺めた。魔族は人間界に降りると見た目が変わる。人間界用の別名だって持っているのだ。
 サラリとした黒髪は変わりがないけれど、自慢の瞳が ―― まるでピジョン・ブラッドを溶かし込んだような妖艶な光を放つ赤い瞳が ―― 漆黒の闇のような黒に変化している。たったそれだけの事で、自分が自分でなくなってしまったような違和感があって、ほんの少し落ち着かない。
 こちらを見返す黒曜石から逃れるように、あたしは視線を通りへ戻した。あたしが今立っているのは大きな交差点の前だった。縦横斜めに横断歩道が走る複雑な交差点。信号が青になるたびに押し寄せ、ぶつかり合い、潮が引くように消えていく人の波。よくもまあ、こんなにごちゃごちゃした所で自分の進む方角を見失わないものだと、感心を通り越して呆れてしまう。
 あたしの視線は引き寄せられるようにある人物の上で止まった。ひょろりと背の高い男。白いシャツを羽織り、色褪せたジーンズをはいている。背は高いけれどがっしりとした感じではなく、逆にひょろひょろとして頼りない印象を受ける。
 ―― あの男、まだいる……
 男はあたしが中華料理店の軒下に陣取った時には、既に歩道をふらふらと、いや、道行く人にぶつかられてよろよろと歩いていた。ぶつかられるたびにぺこぺこ頭を下げたかと思うと、不意に立ち止まり、物珍しそうに辺りを見回してみたりする。そして今は、スクランブル交差点を渡ろうとして反対側から押し寄せて来た波に揉まれて元いた岸へと押し戻されて来たところだった。
 そんな頼りなげな男の様子があたしを苛立たせたけれど、自然と眼がいってしまうのはその為だけじゃない。男の魂は、この場の誰よりも白い色を放っていたのだ。とても弱くかすかな光だけれど、禍々しいほどの白さだった。
 あの春の陽射しのような白を絶望の黒へ塗り替えることができたら……。その考えはあたしを魅了したけれど、その為には暫らくの間あの男と行動を共にしなければならない。横断歩道も渡れないような男と一緒では、さぞストレスが溜まる事だろう。それに、吹けば飛ぶようなか弱い男よりも、自信満々の堂々とした男を絶望させる方があたしの趣味に合っている。あんな男、あたしが手を下すまでもなく、暫らく街中に放り出しておけば、やがて人々の放つ蒸せるような熱気にあたって儚く溶けて消えてしまいそうだ。
 そんな考えにクスッと笑みをこぼした瞬間、あたしの視線は何度目かの挑戦でやっと交差点の真ん中まで進む事ができた男の姿を捉えていた。青信号が点滅し、波がサアッと引いていく交差点のど真ん中で不意に男は足を止め、のんびりとした動作で空を仰いだ。
 ―― あのバカ、何やってるのよ!
 あたしが肝を冷やし中華料理店の軒下を飛び出すのと、信号が赤に変わったのは同時だった。ゆっくりと動き出す車を横目にあたしは横断歩道へ飛び出した。そのまま一気に駆け抜けて、呆けたように空を眺める男の腕を掴む。
「バカッ! 早く渡るのよっ!」
 有無を言わさず腕を引っ張り、一番近い歩道目指して駆け出す。いっせいに鳴り響いたクラクションに一瞬頭の中が真っ白になったけれど、それでもあたしは男の腕を離さなかった。

 結局、あたしたちはさっきの中華料理店の前に戻って来てしまっていた。てらてらと光るショーケースの中の贋物の料理があたしの疲労感に追い討ちをかける。
「まったく、どうしてあたしがこんな事……」
 咄嗟に飛び出してしまったけれど、この男があのまま車に轢かれてくれても一向に構わなかったはずだ。どちらかといえばその方がありがたい。あたしは悪魔なんだから、苦痛に呻きながら死んでいく人間を見るのだって大好きなはずだと思う。……人間界は今日が初めてだから断言はできないけれど。
「大体アンタ、あんな所に立ち止まって何見てたのよ!?」
 あたしは苛立ちを隠そうともせず、隣の男を振り仰いだ。近くで見上げると、男はかなり長身だった。風に揺れる髪は柔らかそうで、色素の薄い瞳は琥珀色に近いように見える。ガラス玉のような目が不思議そうに見開かれ、ふっと穏やかな色を浮かべた。
「……ああ、空を、見ていたんだ」
「空?」
 男は大きく頷いて、あたしを促すように再び空を仰いだ。
「ここからだと建物が邪魔して空の一部しか見えないだろう? でもあそこに立った時、ぽっかりと丸い空が見えたんだ。それだってやっぱり一部の空しか見えないのに変わりはないんだけど、ああ、空って青いんだなぁって感動しちゃったんだよ」
 あたしの眼にも青い空が映った。車が吐き出す汚らしい空気のベールに覆われた、ぼやけた空が。こんな空の一体どこに感動したっていうんだろう。やっぱり変な奴だ。どこか抜けている。これ以上関わり合いにならないうちに逃げ出した方が良さそうだ。
「あっそう。そんなに空が見たいんだったら、あのビルの屋上にでも行ってみたら? あそこだったら何にも邪魔されずに好きなだけ空を見ていられるんじゃない?」
 そしてどうせならそのまま柵から落っこちちゃいな、と心の中で付け足してあたしはにっこり微笑んだ。
「そうか、それは素敵な考えだね。空に一番近い場所で、視界に映るのは全部空って爽快な気分だろうなぁ……」
 雲の切れ間からのぞいた光が男の姿を浮き上がらせる。背中から日の光を浴びた白いシャツが柔らかな光を放って、思わずあたしは目を細めた。
「ねえ、キミ、一緒に行こうよ。えっと、女の子にキミって言うのも失礼かな、名前は?」
「は?」
「ああ、そうか、他人の名前を訊くにはまず自分が名乗るのがマナーだったね。僕は、蒼(あお)。蒼って呼び捨てにしてくれて構わないよ。で、キミは?」
 男の髪が日の光に透けてきらきらと輝いた。あたしの答えを待つように、琥珀の瞳が優しく細められる。
「……茉莉(まつり)
「茉莉ちゃん、ね。じゃあ、茉莉ちゃん行こうか」
 男はそう言ってあたしの手を取った。手の平に温かさを感じて、あたしは呆然と男を見つめ返した。急な展開に思考が付いて来られない。えっと、茉莉ちゃん? 何だってこのあたしがこんな優男に名前をちゃん付けで呼ばれなくっちゃならないのよ。
 そんなどうでもいい事にこだわってしまうなんて、あたしの頭は完全に混乱していたとしか思えないんだけど……。
「ちょっと待ってよ、どうしてあたしがアンタにちゃん付けで呼ばれなくっちゃなんないのよ?」
「アンタじゃなくって、蒼だよ。あ・お」
「うっ、……蒼? えっと、アンタも"茉莉ちゃん"は止してくれる? 虫酸が走るのよ!」
「う〜ん、女の子を呼び捨てにするのってあんまり好きじゃないんだけどなぁ……。でも、まあ仕方ないね。とりあえず続きは歩きながらで良いかな、茉莉?」
 照れたようにあたしの名を呼ぶ蒼の姿に、どっと疲れが込み上げてくる。あたしは茫然自失の状態で、手を引かれるまま蒼の後ろに付いて歩き出した。
 こうして、あたしの二十歳のバースデーはとんでもない事態で幕を上げたのだった。

※※※

 もの凄くイライラする。ひょろひょろとして頼りなげな奴なのに、いつの間にか蒼のペースに巻き込まれているあたし。こんな事をやっている場合ではないのに。儀式を受ける為の試験にパスしなければならないのに。その為には誰かに不幸の苦汁を舐めさせなければならないのに。それなのに、どうしてあたしは蒼の隣に座って電車に揺られているんだろう。

 あの後、あたしは蒼に手を繋がれたまま交差点から一番近いビルの屋上に連れて行かれた。そこは"空に一番近い場所"とは到底言えるような高さではなかったけれど、それでもドアを開けた蒼は無邪気な笑顔を浮かべて屋上に走り出ていった。もしも魔力が使えたら今すぐ大雨を降らしてやるのに、と歯噛みをするほど蒼の様子は楽しげだった。
「ああ、綺麗だなぁ……」
 古びたオフィスビルの屋上には柵がなかった。蒼は恐れる様子もなく端まで歩いて行き、膝位までしかない屋上の縁(へり)の前で足を止めた。あたしの中に昏い殺意が芽生える。このままこっそり背後まで近付いて、思いっきり背中を突き飛ばしてやったらどうだろう? まさかあたしがそんな行動に出るなんて思ってもいない蒼は、驚愕に顔を歪めるだろう。そして、己の迂闊さを呪いながら宙を舞うのだ。あの白いシャツが真っ赤な血に染まったところを想像すると、ゾクゾクする。
「なあ、茉莉? 海って見た事あるか?」
 忍び足で蒼の背後に迫っていたあたしは、彼の問いにギクリと足を止めた。
「えっ、海?」
「うん、海。海もさ、空みたいに青いんだろう?」
 振り向いた蒼の瞳は生き生きと輝いていたから、思わずあたしは惹き込まれるように見入ってしまう。
「それに、空と違って刻一刻と色が変化するんだって。綺麗だろうなぁ、見たいなぁ……。そうだ、茉莉、これから見に行ってみないか?」
「はあっ!?」
 くらりと眩暈を感じて、そこが屋上の縁だった事を思い出す。思わず下界を覗き込んでしまったあたしは、あまりの高さに一瞬意識が飛んでしまった。
「おっと、危ないよ」
 遠くからのん気な蒼の声が響き、温かい感触が肩を覆う。
 あたしはまたしても呆然としたまま、蒼に促されて屋上を後にしたのだった。

 楽しげな顔をして窓の外を眺める蒼に、殺意めいたものを覚えてしまう。
 だけど、自分の不運を嘆いても仕方がない。こうなったら今日の獲物は蒼にする以外道はなさそうだ。この飄々とした男を不幸のどん底に叩き落す、今の怒りをもってすれば赤子の手を捻るより簡単な事だろう。半ばやけっぱちにそう考えて、あたしはふつふつと湧いてくる苛立ちを抑えつけた。
「あっ、茉莉。海だよ、見てごらん」
 不意に明るい声を上げて蒼が窓の外を指差した。
 ほらほら、と急かされて仕方なくあたしも視線を窓の外に向ける。と、柔らかな初秋の太陽に照らされた光る水面(みなも)が眼に飛び込んできた。
「うわぁ……」
「茉莉、次、降りよう」
 蒼がうきうきした様子でそう言うから、あたしも弾む心で頷いてしまった。眼は次々と生まれ来る白い波から離せないままに。
 魔界にも空はある。さっき見上げたどんよりとした空よりも、もっとずっと美しい濃紺の空が。雑然としたビルの群れはないけれど高い塔はあるし、ここへ来る前に人間界の事はひと通り勉強済みだったので、こんなもんかぁ、と言う程度で済んでしまった。
 だけど、海は。
 もちろん海についての知識だって持っている。それでもなお、本物の海は圧巻だった。
 深い青。日の光を通す淡い青。沖の方は光を反射して目映く輝き、その青を窺う事はできない。そして、生まれては消え、消えては生まれる白い波。あの波はどこからやって来るのだろう。
 ガタンと止まった電車から降り立つと、辺りは不思議な香りで満ちていた。遠い記憶を呼び覚ます懐かしい香り。初めて嗅いだ香りをそんな風に感じるなんておかしいけれど。
「海、気に入ったみたいだね」
 思いがけない近さから蒼の声が響いた。図星を差されて、あたしは一瞬むっとする。
「別に……。蒼はどうなのよ? こんな所まであたしを引っ張ってきたのは蒼の方でしょう」
「ああ、最高の気分! 早く行こうよ、茉莉」
 屈託なく笑ってこちらに手を差し出す蒼。この手を払い除けてやったら少しは落ち込むだろうか。
 そんな考えとは裏腹に、あたしは蒼の手を取っていた。他人の体温をこんなに心地良いと感じるなんて、自分で自分が信じられない。しかも、相手は蒼だ。あたしの今後がかかった大切な獲物。
 ふと、すぐ上の姉の声が甦った。昨夜遅くあたしの部屋を訪れた姉が、意味ありげな笑みを浮かべてささやいた声が。
『どうしようもなくなったら、この媚薬を使うといいわ』
 そう言ってあたしの右手に何かの小瓶を握らせた。
 左手を蒼に繋がれたまま、あたしは右手をそっとポケットに忍ばせる。そこには昨夜の記憶のままに固い感触の小瓶が眠っていた。
 ―― 大丈夫、あたしにはこの媚薬がついている

「うわぁ、スッゴイなぁ、大きいなぁ、綺麗だなぁ……」
 歓声を上げた蒼が、手に持っていたコンビニの袋を放り出して砂浜を駆ける。無邪気な彼の姿に苦笑を浮かべながら、あたしは砂まみれになってしまった白いポリ袋を拾い上げた。中にはペットボトルの飲み物やおにぎり、サンドイッチなんかが入っている。
 初秋の海辺には、他に人の姿はなかった。遠くに見える堤防の上に数人の釣り人がいるくらいだ。すっかり店じまいをしてしまった売店の後ろには、"かき氷"と書かれた色褪せたのぼりが無造作に打ち捨てられていた。
「おおーい、茉莉もおいでよー!」
 いつの間にか裸足になった蒼が靴下を振り回してあたしを呼ぶ。二十歳にもなってそんな子供みたいな事やっていられない、という思いが頭の片隅をかすめたけれど、全身に響く波の音や独特の香りのする風があたしを誘うから……。
 我慢できなくなってあたしも駆け出した。靴を脱いで恐る恐る砂の上に足を置く。砂はほのかに温かくてしっとりとした質感だった。体重を掛けるとわずかにめり込んで、それがなぜか気持ちいい。
 そろそろと差し出した足を、波が洗う。あまりの冷たさにあたしは飛び上がった。
「冷たーい!」
「慣れれば平気だよ、ほら、思い切っておいで」
 無邪気な笑みを浮かべて蒼が誘う。彼のお兄さんぶった言動があたしの負けん気を刺激した。さっきは水の温度を予想できなかっただけ。今度は冷たさを覚悟して、ひと思いに波打ち際に足を進める。寄せてきた波はやっぱり冷たくて全身を震えが走ったけれど、ひとつ、もうひとつと波をやり過ごすうちに徐々に身体が慣れてくる。
「気持ち良い〜!」
 引いていく波が足の下の砂を攫っていく感触に笑い声を上げながら、沖を眺める。隣では屈み込んだ蒼が両手で水をすくって空中にばら撒いていた。そのひと粒ひと粒が太陽の光を反射してキラキラと眩しい。
「ああ、海って綺麗だなぁ……。見てごらん、足元に寄せてくる波は透明なのに、どうしてちょっと沖に行っただけであんなに青くなるんだろうね?」
「さあ……、解らないわ」
「やっぱり空の青さと関係しているのかな? ああ、空もさっきよりずっと澄んでいるね。空と海が交わるところ、どこまでが海で、どこからが空なのか判らないよ」
 不思議そうに遠くを指差す蒼の横顔に、あたしはかすかな違和感を覚えた。もしかして、この人は本当に初めて海を見ているのだろうか。
「ねえ、どうしてそんなに海や空にこだわるの?」
 海に見惚れていた蒼が、そのままの眼差しであたしを捉える。
「……ああ、僕の名前が蒼だから、だよ。名前とお揃いで、青いから」
 嘘だと思った。それでもまるで海のような光をたたえた蒼の瞳を見ていたら、あたしには曖昧に頷く事しかできなかった。

 それから、あたしたちは暫らく波と戯れ、買って来たおにぎりを食べて、また波と遊んだ。波を跳ね上げて追いかけっこをしたり、波間に転がる貝殻を拾い集めたり、砂で山を作ったりと、海辺の遊びは尽きる事がない。
 だからといって、あたしが今日の目的を忘れたわけではないけれど。
 ポケットの中の小瓶は、ふとした瞬間にその存在を主張し続けた。
 媚薬。
 これは、姉が獲物を自殺に追い込んだ時に使ったものだ。ほんの一滴、この媚薬を獲物に飲ませれば、相手はたちまちあたしに恋してしまう。一日中思わせぶりな態度を取って獲物の恋心を煽ったら、夕方の別れ際、うーんと酷い言葉で相手を振れば良い。たったそれだけで、恋に破れた獲物は失意のどん底に陥るだろう。もう二度と立ち上がれないと思うほどに。
 姉が何と言う言葉を使って獲物を死に至らしめたのかは知らない。だけど、恋の魔法はそれくらい強烈なものらしい。
 例えばペットボトルの蓋を開けてあげる振りをして媚薬を垂らす。おにぎりをパックから取り出す瞬間、サンドイッチを手渡す瞬間。媚薬を仕込むチャンスはあちこちに紛れていた。
 それなのにあたしは、最後の一つの海苔巻きを蒼に差し出す段になってもぐずぐずと媚薬の使用を躊躇い続けた。美味しそうに頬張る蒼の顔を見ているうちに、後ろ暗い気分になった訳じゃない。ただ、媚薬に頼るなんてあたしのプライドが許さなかっただけだ。それだけの事だ。そう、強く自分に言い聞かせてみても、もやもやとした気分は晴れなかった。

※※※

 チャンスは思いがけないところから転がり落ちてきた。
 そう、文字通り転がり落ちてきたのだ。
 浜辺で散々遊んだあたしたちは、散歩がてら遠くに見える防波堤まで行ってみる事にした。片手に靴を持ち、空いた方の手はどちらからともなく指を絡める。日が傾いてきたせいか、足の裏に感じる砂は先程よりも冷たくなっていた。
 青色の深みを増してきた海を眺めるあたしの胸中では、焦りの感情が徐々に増大してきていた。このままでは一日が終わってしまう。何事もないまま、終わってしまう。それはあたしの試験の失敗を意味していた。それでも、焦れば焦るほど良い考えは浮かんでこない。とりあえず、あの防波堤に行けば何人かの釣り人がいる。もしかしたらその中に、あたしの獲物になるような人間が紛れているかもしれない。今は、そんな些細な希望に縋りたい心境だった。釣った魚が入ったバケツをあたしに蹴っ飛ばされたとしても、怒りはしても不幸を感じてはくれないだろうけど……。
 あたしの期待が魔王様に通じたのか、あたしたちが防波堤に辿り着いた瞬間、騒ぎは持ち上がった。
 子供が海に転がり落ちたのだ。それも、波の穏やかな港側ではなくて、飛沫の上がる外海の方へ。どうやらテトラポットの上で遊んでいて足を滑らせたらしい。
 思わずニヤリと微笑んだあたしの隣で、蒼がハッと息を呑む音が聞こえた。と、同時にあたしの手を振りほどき、彼は真っ直ぐに防波堤の先端へと駆け出した。その姿は、とても朝の交差点で途方に暮れていた人物と同じには見えなくて、思いがけない敏速さに呆気に取られてしまう。
 防波堤の先端に辿り着いた蒼は、白いシャツを脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。あっという間の出来事だった。わらわらと集まっていた釣り人の間からどよめきが上がる。蒼の後ろ姿を呆然と眺めていたあたしも我に返り、小走りに防波堤を駆けると、先端から蒼の姿を探した。子供は浮き沈みしながら沖の方に流されており、あたしが駆け付けた時には、近くまで泳ぎ着いた蒼が手を差し伸べるところだった。
「蒼っ!」
 思わず叫んだあたしの声は、明らかにかすれていた。あたしは震える指先で蒼のシャツを拾い上げる。脱ぐ時に引っ掛けたのだろう、胸元がわずかに破けていた。白いシャツをギュッと抱きしめ、あたしは二人の姿を窺う。胸がドキドキと激しく脈打って苦しいくらいだ。このまま二人が死んでしまったら……。その考えが頭をかすめた瞬間、全身に痺れが走った。
 背後で誰かが叫んでいる。「浮き輪」という言葉が耳に入って、あたしは振り返った。見ると、オレンジ色の浮き輪を持った男が慌てた様子で走って来たところだった。
「それ貸してっ!」
 あたしは夢中で浮き輪を奪い取り、子供にしがみ付かれて苦しそうにもがいている蒼を見やる。
 蒼の視線が波間からあたしを捉えた。
 静寂が、あたしを包む。
 あたしと蒼の視線は確かに絡んでいた。
 これは、思いがけないチャンスだ。あたしはこのまま黙って蒼と子供が溺れていくさまを眺めていればいい。蒼は浮き輪を持ったまま微動だにしないあたしに絶望しながら死んでいくだろう。そう、死の瞬間彼を包むものは絶望だ。己の不幸を呪い、あたしを憎悪するだろう。
 あたしには見えていた。最初からか細かった蒼の魂の光が、点滅するように弱っていく様子が。あたしへの疑心暗鬼だろうか、純白の光が徐々にグレーへと変貌していく。子供の方は今すぐ消えてもおかしくないくらいだ。
 その光景はあたしを楽しませるはずなのに。快感が全身を駆け巡るはずなのに。それなのに、どうしてあたしはこんなに苦しいんだろう?
 刹那、蒼が微笑んだ。
 柔らかな微笑み。まるで全てを赦すような。
「ずるいよ、蒼……」
 あたしには何も考えられなかった。ただ、身体が勝手に動いて力一杯浮き輪を沖へ放り投げる。沈みそうになりながらも蒼が浮き輪に手を掛けたのを見届けると、あたしはその場にゆっくりとへたり込んだ。いつの間にか落としてしまっていたシャツを拾い上げ、顔を埋める。
 破れたシャツからは、かすかに蒼の匂いがした。

※※※

「助けてくれてありがとう」
 無事に子供を連れて岸に戻った蒼は、あたしの手を取ると引き止める人々の言葉を無視して逃げるようにその場を離れた。まるで競歩のように無言で砂浜を歩き続けたあたしたちは、浜から遊歩道へ続く階段の前で示し合わせたように足を止め、どちらからともなく腰を下ろした。
「別に……」
 あたしは答えようがなくて、赤味を増す太陽を眺めた。もうすぐ今日が終わる。
「どうして僕を助けた? あのまま放っておけば、茉莉の目的は達成されたんじゃないのか?」
 蒼の言葉にあたしはビクリと身を竦めた。恐る恐る窺うと、蒼はやけに真剣な眼差しであたしを見つめていた。
「なんで……」
『分かったの?』 、それとも『そんな事言うの?』
 言葉の続きが上手く紡げなくてあたしは唇を噛む。静かな蒼の表情からは彼の考えを読み取れない。ざわりとした不安が肌を舐めた。
「朝の交差点でも。あの時、どうして僕を助けた? ビルの屋上で、どうして僕を突き落とさなかったんだ?」
「あなたは……誰?」
 蒼は哀しげに微笑んだ。
「僕は、天使だよ。まだ、成人の儀式を受けていないから、天使の卵だけど。多分、茉莉もそうだろう? キミをひと目見た瞬間、魂の色で判ったよ……」
 ああ、それで。あんな白を普通の人間が持っているはずがなかったんだ。どうして気付かなかったんだろう。天使。悪魔と敵対する者。人間を幸福へと導く者。
「交差点で助けたのは、ただの気まぐれよ。それにあたし、殺そうとしたわ。あのビルの屋上で、蒼を突き落とそうとした」
「あの時の茉莉に殺意はなかったよ」
「さっきだって、見殺しにしようとした。蒼がもがき苦しんで死ねば良いと思ったんだから……」
「うん、でも茉莉はそうしなかった。茉莉は……」
「気まぐれよっ!」
 思わずあたしは立ち上がっていた。これ以上蒼の言葉を聞くのが怖い。渾身の力を込めて憎い天使を睨み付ける。
「ただの気まぐれだって言ったでしょう? 今日はあたしの大切な日なのよ? みすみす獲物を逃がしたりなんてしないわ」
「そうだね。ねえ、茉莉、天使と悪魔が出逢ったら、どうすれば良いか知ってるかい?」
 蒼の言葉があたしの昂ぶった感情を一気に冷やした。天使と出逢ったら何をするか、そんなの子供だって知っている。殺すのだ。戦って殺すだけだ。
 あたしの気持ちを読んだかのように、蒼がゆっくりと頷いた。
「今日僕は茉莉に命を助けられたね。だから十数える間は抵抗しない。安心して手を下すといい。成人前の悪魔が天使を殺したなんて、きっと偉大な業績として悪魔界の伝説になるよ」
 蒼は淋しげに笑い、静かに瞳を伏せた。少しだけ顎を上げて首を仰け反らせる。
「イチ、ニイ……」
 轟く波の音が、蒼の声を掻き消す。あたしは汗ばむ手を静かに蒼へ伸ばした。蒼の言うとおり、ここで天使を殺せば誰もがあたしを称讃するだろう。
「……ゴオ、ロク……」
 蒼は座ったままなので、あたしは彼を見下ろしていた。赤い日射しが蒼の頬を染める。髪が光に透けてきらめいた。もしかしたら、本当は金色の髪なのかもしれない。黄金を溶かし込んだような金色の髪。
 あたしの指先はあと少しで蒼の頬に触れられる位置まで来ていた。あたしの意志とは関係なく震える指先を見ていると、なぜか可笑しさが込み上げてくる。
「キュウ……、ジュウ…………」
 蒼が琥珀色の瞳を開く。あたしはがっくりと手を下ろした。
「ホント、ずるいね蒼は。……あたしの、負けみたい」
 不思議そうにこちらを見上げる蒼の視線から逃れるように、今度はあたしが瞳を伏せた。
「ほら、やりなよ。悪魔を殺して讃えられるのは蒼だって一緒でしょう?」
「いいのかい?」
「……初めから、解ってたくせに。あたしに蒼は殺せないって」
 波の音が聞こえる。くり返しくり返し響く、どこか懐かしい音。その音に混じって、ザリッと砂を擦る音がした。蒼が立ち上がったのだろう。手には汗を握っていたけれど、心の中は穏やかだった。蒼に止めを刺されるのなら、それも運命なのかもしれないと思えるから。
「いくよ」
 蒼の手がふわりとあたしの頬にかかる。
 そして、唇に。
 やわらかくてあたたかい感触。これは、……何?
 膝の力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになったあたしの身体を蒼が支える。あの細腕のどこにこんな力が、と思えるくらい蒼の腕はたくましかった。
「……知らなかった。天使って、ずい分と色っぽい殺し方をするのね」
 全身の力が入らなくて、あたしはぐったりと蒼の顔を見上げた。あたしはもうすぐ死ぬのだろう。だけど、恐怖はなかった。胸に満ちるこの感情は……。
「なんて顔してるの? まるで蒼が死ぬみたいじゃない。僕は世界中の不幸を背負ってますっていう顔してる。魂も、絶望の色に染まってる……。ふふ、あたしの試験はとりあえず合格かなぁ……」
 蒼の顔が歪んで見える。どうやらあたしは泣いているらしい。蒼がそっとあたしの前髪を撫でる仕草が気持ち良かった。
「……ああ、僕は不幸だ。どうして茉莉は悪魔なんだろう。どうして天使は悪魔を倒さなくっちゃならない? 茉莉を殺して僕だけ生き延びるなんて、できるはずもないのに」
 あたしは目を見開いた。答えを探すように蒼の琥珀色の瞳を覗き込む。
「……最初は、悪魔が人間に酷い事をできないように見張っているだけのつもりだったのに、海に見惚れたり、波と戯れたり、僕を助けてくれたり……。茉莉の方こそ反則じゃないか」
 蒼に痛いほど抱きしめられて、あたしの身体が息を吹き返す。
「好きだよ、茉莉が好きなんだ……。キミを殺せるわけがない」
「蒼」
 ああ、なんという幸福感。全身を喜びという名の波が駆け巡る。
 蒼の背中にそっと手を回してみる。それから、まだ乾ききっていない髪にも。蒼は海と同じ懐かしい香りがした。
「……バカね。絶好のチャンスだったのに。バカな天使。そして、バカな悪魔」
 そう、あたしたち二人は恋の魔法にかかった大バカ者だったんだ。
 きっと、あの交差点で蒼の姿をひと目見た時から、あたしの心は媚薬に侵されていたに違いない。
 蒼と出逢った瞬間から、あたしの不幸は始まっていた。
 そして、蒼と出逢った瞬間から、あたしの幸福も始まっていたんだ。
「天使に一目惚れしちゃったなんて、あたしってついてない……」
 瞳を見交わしたあたしたちは、同時に笑みをこぼした。悪戯っ子のように無邪気な微笑みを浮かべていた蒼の瞳が細められ、不意に愛しげな光を浮かべる。
 天使のキスは幸福を。悪魔のキスは絶望を。
 幸福と絶望がない交ぜになったあたしたちのキスは、ほんの少ししょっぱい味がした。

「ねえ、蒼。名前を教えて? 蒼って本当の名前じゃないんでしょう?」
「僕は、ブルーノ。茉莉は?」
「あたしは、ジャスミン。……もしかして、ブルーノのブルーで蒼?」
「悪かったな、単純で。茉莉の方こそジャスミン=茉莉花で茉莉だろ? あ、ほら、茉莉、見てごらん。日が沈むよ」
 あたしの頭をぽんと叩いて蒼が立ち上がる。渋々立ち上がったあたしは壮絶な夕日に思わず息を呑んだ。
「綺麗だなぁ……青い空や海も綺麗だったけど、夕焼け空の美しさも格別だね」
 その言葉で、あたしはずっと感じていた疑問を思い出した。
「ねえ、青空にそんなに感動するなんて、天界の空って一体何色なのよ?」
「……白だよ。見渡す限りの白い世界、それが天界さ。人間界は凄いね。空も海もこんなに美しい」
 そう言う蒼の瞳の方がずっと美しいと思う。哀しみと愛しさをたたえた琥珀色の瞳。
「それじゃあ、あたしたち、今度は人間界に生まれられたらいいね」
 瞳を見開いた蒼が、静かにあたしの肩を抱き寄せた。あたしもゆっくりと蒼の胸に頬を寄せる。
 天使と恋に落ちたあたしを、魔王様はきっと許さない。
 永遠に輪廻の輪から外されるだろう。
 そしてそれは、悪魔に恋した天使も同じなのかもしれない。
 それでも今は遠い未来を感じられた。蒼とあたしが共に在る未来を。
「そうだね、僕たちはもう一度ここでめぐり逢うんだ」
 あたしは黙って肩に置かれた蒼の手に指を絡める。ありったけの、想いを込めて。
 

 赤い夕日が水平線に消える。
 名残りの赤が染める空を、あたしたちはじっと見つめていた。
 ただ、静かに見つめていた。



END






あとがき







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