1


「それじゃあ、来週行かれる日が決まったらメールするから。直哉も試験勉強頑張ってね。バイトも程々にしないと、ホントに留年しちゃうよ?」
 からかうようにそう言って小首を傾げた咲月に、直哉は「分かってる」とぶっきらぼうに頷いた。
 住宅街にある小さな駅前広場は闇に包まれ、街灯の明かりと改札口から漏れてくる仄かな光が白いコート姿の咲月の横顔と、彼女が吐き出す息を柔らかく照らし出ている。
 ひょっとしたら氷点下に届いているかもしれない底冷えのする夜だというのに、直哉の眼にはその光景がやけに温かいものとして映った。まるで咲月だけが長閑な春の光に包まれているように感じられる。
 それに対して、自分が立っている場所は永久凍土だ。
 そう考えた瞬間自嘲の念が込み上げ、直哉は眉根を寄せて咲月から眼を逸らした。
 そんな直哉の不機嫌そうな態度を咲月は"触らぬ神に祟りなし"と判断したのだろう、諦めたように小さな溜め息をもらすと、
「じゃあね!」
 と明るく言って踵(きびす)を返した。
 だから、直哉が慌てて視線を上げた時には、小走りに改札に向かっていく後ろ姿しか捉えることができなかった。呆然と見送る先で、自動改札を抜けた咲月が振り返り笑顔で手を振ってくる。ぎこちなく左手を上げた直哉にひと際大きく手を振り返したのを最後に、咲月の姿は呆気なく駅舎の中に消えた。
 たった一人で寒空の下に取り残された直哉は、無人になった改札口をたっぷり十秒近く見つめ続けてから、胸の底から盛大な溜め息を吐き出した。春の陽射しは消え去り、彼を取り巻くのは身を貫くような冷気だけだ。ふと直哉は、自分が左手を上げたままだったことに気付き苦笑を漏らした。
 けれど、虚勢を張っていられたのはそこまでだった。
 気を抜いたらその場に崩れ落ちてしまいそうな虚脱感に襲われ、眼に留まったロータリーのベンチに歩み寄り、腰を下ろす。木製のベンチは氷のように冷たかったけれど、そんなことに頓着していられないほど今の直哉は気もそぞろだった。
(今日も、駄目だった)
 ぐったりとベンチの背にもたれると、強ばっていた肩を初めに全身から力が抜けていくのが分かる。どうやら直哉の身体は極度の緊張状態に晒されていたらしい。
 直哉は気だるい脱力感に身を任せたままぼんやりと視線を上げた。と、真っ黒な布地に宝石を撒いたように煌めく、星々の冴えた光が眼に留まった。明るい都会の夜空でこれだけの星を見ることができるのは、冬の澄んだ大気ならではだろう。
 直哉の眼は自然と見慣れた星座を辿っていた。縦長の長方形を形作る四つ星と、その中央に斜めに並んだ三つ星。
 冬の星座の代表、オリオン座だ。
 左上で赤く光るベテルギウスと右下で青く光るリゲルは共に一等星。これだけでも贅沢な眺めだが、視線をオリオン座の左斜め下方向に移すと、そこには一段と明るく輝く青星が一つ。この星こそが全天で最も明るい恒星、シリウスだ。
 他を圧倒するようなシリウスの冴えた輝きを眼にした途端、直哉の胸に切なさを伴った疼きがざわりと湧き上がってきた。
 この駅前広場が華やかなイルミネーションで彩られていたのは、たった三週間ほど前のことだ。あの夜からまだ一ヶ月も経っていないというのに、暗がりのベンチに独りぽつんと座っていると全てが幻だったような気がしてくる。大きなツリーも、華やかな光を放っていたイルミネーションも、改札口から走り出て来た咲月の姿も。
 そして何より、咲月を抱きしめキスをした直哉自身の行動が。
 あの時の自分にどうしてあんなことができたのか解らない。今となってはイブの魔法に浮かされたとしか思えなかった。
(だとしたら)
 直哉はポケットの中の右手をギュッと握り締めた。
(もう一度自分に魔法をかけてくれるなら、悪魔に魂を売ったってかまわない)
 結局、ポケットに入れたまま出すことがなかった右手は、かすかに汗ばみ湿り気を帯びていた。



◇◆◇




 北村 直哉(きたむら なおや)と井川 咲月(いがわ さつき)は生まれた時からの幼馴染みだ。
 家が斜め向かいで同い年、その上お互いに一人っ子だった直哉と咲月は、物心ついた頃から本当の姉弟のように育ってきた。特に、母親同士が高校の頃からの親友だったこともあり、共働きの両親を持った直哉は何かと井川家に世話になることが多かったし、咲月の両親も彼を我が子のように受け入れていた。直哉が中学を卒業するまでは、平日の夕食はほぼ毎日井川家で饗されていたほどだ。
 高校に入ってからしばらくすると直哉の帰宅時刻がぐっと遅くなり、この習慣は廃れてしまったけれど、その後も咲月の母親は何かと直哉に気を配ってくれていた。帰りの電車が偶然咲月と一緒になった時などは、後から井川家の夕食が詰まった弁当箱を持たされた彼女が訪ねて来るのが常だったし、時には直哉の家に上がり込んだ咲月が冷蔵庫の残り物をチェックして自宅から食材を持ち寄り、その場で簡単な料理を作ってくれることもあった。小さい頃から料理上手な母親にみっちり料理を仕込まれてきた咲月はなかなかの腕前の持ち主で、味も手際もプロ並みと評してもいいくらいだったのだ。
 地域で学区が決まっている小、中学校だけではなく、高校も二人は同じ学校を選んだけれど、これは半ば必然的なことだったといっても良いかもしれない。学力的には均衡していた二人が、お互いのレベルよりほんのちょっと高めだった高校について、
『俺なら合格できるけど咲月には無理だね』
『直哉が受かるわけないでしょう! あたしなら余裕で合格だけど』
 と、やり合っているうちにライバル心に火が付き、いつの間にかお互いにその高校が第一志望になっていたわけなのだ。
 咲月と直哉の関係は、姉弟であり、好敵手であり、そして親友でもあった。相手がそこにいるのが当たり前で、いないと妙に淋しく落ち着かない。物心ついてからこっち、二人が三日以上顔を合わせないことなどほとんどなかった。どんなに激しい喧嘩をしても、翌日にはケロリとした顔で一緒にいた。
 咲月との関係がギクシャクしたのは、直哉の記憶にある限り小三の新学期と高一の夏休み前、それから高二の秋頃だけだ。いずれも咲月の方が直哉を避けた形だった。避けられた直哉はというと、間抜けなことに一週間以上経ってからその事実に気付き、憤然として咲月を問い詰めた。
 責められた咲月は小三の時だけはその理由を嫌々ながらも語ってくれたけれど、それ以降は曖昧に言葉を濁すだけだった。とはいえ、直哉の抗議を受け入れ、いつもの気の置けない態度に戻ってくれたので、直哉としてもそれ以上問い詰めることも気に掛けることもなかったのだ。
 もっとも、小三の時に咲月が直哉を避けた理由というのが”友達に名前で呼び合っていることを冷やかされたから”という、直哉にとってはくだらないとも思える些細なことだったので、以降の理由も恐らくそれに類することなのだろうと勝手に納得していたという部分が大きかったのだが。
 直哉的には不思議でたまらなかったのだが、中学、高校時代を通して二人の関係を邪推する者は呆れるほど多かった。どうやら世間は”仲の良い異性の幼馴染み”という間柄には懐疑的なものらしい。その二人が年頃の年齢だったりすると、特に。
 直哉は高校の三年間に両手の指では収まりきれないくらいの数の彼女と付き合ったけれど、そのほとんどが最後には直哉と咲月の関係を非難して去っていった。最初から直哉には咲月という仲の良い幼馴染みがいると分かっていて、それでも良いから付き合ってくださいと告白してきたにもかかわらず、だ。
 直哉にとって彼女たちの行動は不可解以外の何物でもなかったし、女の子というのはわがままなものだという感想しか残らなかった。おまけに、別れを切り出してきた彼女を繋ぎ止めるなんていうことは、思い付きもしなかったのだ。
 ただ、告白されればOKして、別れたいと言われればまたOKする。それだけがすべてだった。
 直哉の横を数え切れないくらいの恋人が通り過ぎたけれど、幼馴染みの咲月だけはずっと隣にいてくれる。
 直哉にとって恋人とは気まぐれに去って行くものであり、幼馴染みはかけがえのないものだった。
 友達とも恋人とも違う、特別な間柄。
 二人のこの関係は、十八年間不動のものだった。それが崩れたのは、十九年目のクリスマスイブ。
 今からほんの三週間ちょっと前のことだった。




Next | Top