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 ぼんやりと星空を眺めていた直哉は、ふと虚しさを覚えて視線を自分の膝に落とした。
 次々と頭に浮かんでくるイブの夜の自分と咲月の姿を追い払うように頭を振り、ぎゅっと目を瞑って闇に逃げ込む。
 幸せそうな二人の姿は、今の直哉にとっては目映い光に包まれた幻想のようで、自分が置き去りにされている暗闇からはとても遠い出来事のように思われた。本当に、あれが現実のことだったとはにわかには信じられない心境だ。
 あの日、直哉は唐突に咲月に対する恋心に気が付いた。
 それはずっと目の前にあったのに、直哉には見えていなかったのはもちろん、その存在自体に気付いてさえいない気持ちだった。別に、誰かに目隠しされていたわけでも、あえて眼を逸らしていたわけでもない。それどころか、たくさんの人々が直哉に向かって何年も指摘し続けていた感情だった。
『高校生にもなって女の幼馴染みと仲が良いなんて、変。ホントにただの幼馴染みなの?』
『彼女の私がお弁当を作ってあげるって言ってるのに、どうして幼馴染みにお弁当を作らせるの? 断るべきなのは私じゃなくて井川さんの方でしょう?』
『どうしていつも井川さんの方を優先するの? 恋人と幼馴染みどっちが大事なの!?』
 けれど何を言われようと、直哉にとってはうんざりするほどくだらない内容にしか思えなかった。幼馴染みの咲月が大切なのは当たり前なことで、それをたかが自分の傍を通り過ぎるだけの恋人に抗議されたって、まともに受け答えする価値さえなかったのだ。
 特に、どっちが大事かという問いに対して正直に「咲月」と答えた時の彼女たちの取り乱しようといったら、つき合いを了解したからには自分からは別れを切り出さないというポリシーを無視して、すぐにでも別れてしまいたいと思うほど酷かった。
 そう、直哉にとって咲月は誰よりも大切な存在だった。物心ついた頃からそれだけは変わらない。たかが恋人なんかとは、比べようもないほどに。
 その気持ちがあまりにも当たり前過ぎて、直哉にとってはまるで空気のようなものになっていたのかもしれない。誰に何を言われても、直哉が自分の想いの本質に気付くことはなかった。
 だから、あの日に限って直哉の眼から曇りが晴れたのは、まさにクリスマスイブの奇跡だったのかもしれない。
 直哉が大学の入学と同時に一人暮らしを始めてからというもの、いつも家事をやってくれている咲月に、お礼として何かをプレゼントしようと思い付いたのは、本当にただの気まぐれに過ぎなかった。クリスマスデートの待ち合わせ場所に現れた途端、有無を言わさず直哉を駅前のデパートに引っ張り込み、ショーケースに貼り付くようにして指輪を眺めている、つき合い始めたばかりの彼女をただ突っ立て待つのに飽きたからというのも大きな要因だった。
 もっとも、彼女の方は最初から直哉に買わせるつもりで混み合うデパートの宝飾売場へやって来ていたのだが、そもそも直哉の方に合コンで知り合ったばかりの、名前の他は通っている大学しかしらない彼女にクリスマスプレゼントを贈るという考えが皆無だったので、「あれ可愛い」「これも可愛い」という必死のアピールも全くもって馬耳東風だったのだ。
 だから、退屈な時間を持て余して何気なく覗き込んだショーケースの中に小さな星をモチーフにした指輪を見つけた時、真っ先に思い付いたのは咲月に似合いそうだということだった。
 そういえば、咲月には掃除や洗濯に料理と家事の一切を世話になっているにも関わらずお礼らしいお礼はしたことがなかったな、と思い至った直哉はそう思った直後にこの指輪を咲月に贈ろうと決めていた。プラチナ製の可愛らしいリングはきっと咲月の白くてほっそりとした指に良く似合うに違いない。
(いきなりプレゼントなんて渡したら、咲月の奴きっと驚くぞ)
 その様子を想像しただけで直哉の頬は自然とゆるみ、弾んだ気分のまま店員に声をかけた。ところがそんな直哉の浮かれた思いに水を差したのは、店員の「サイズはお分かりですか?」という一言だった。実を言うと直哉はこれまで付き合っている恋人に指輪はもちろんほんのささやかなプレゼントさえ贈ったことがなかったので、指輪にサイズがあることなど知らなかったのだ。幸い直哉が気に入った指輪は各サイズの在庫が揃っているらしく、今ここでサイズが分かれば買って帰ることが可能とのことだった。
 ここで、ふと連れの存在を思い出した直哉は、ショーケースの上に載っている彼女の手をじっくりと観察してみた。咲月の手なんてもう何年も握ったことはなかったが、見るだけなら家事をしているところを頻繁に眼にしている。頭の中で、テーブルを拭いている咲月の手と目の前の手を重ね合わせてみると、指の太さはだいたい同じくらいだと思われた。
(ラッキー)
 直哉は単純に喜んだ。だから、
「なぁ、指のサイズっていくつ?」
 と彼女に尋ねたのに、深い意味はなかった。
 けれど、彼女の方はそうではなかったらしい。直哉と店員のやりとりをさりげなく窺っていたらしい彼女は、直哉に呼びかけられると満面の笑みで振り返ったけれど、ショーケースの上に取り出されている指輪を一目見るなりあからさまに不満そうな表情を浮かべた。
「えっ、それ〜? 星ってちょっと子どもっぽくない? ミクはあっちの方が良いな〜」
「そうかな、似合うと思うけど。で、サイズはいくつなんだよ」
「九号だよ。ねぇ、あっちのも出してもらおうよ〜」
 直哉の腕にもたれて鼻にかかった声を出す彼女を一瞥しただけで、直哉は新たな指輪を取り出そうとしていた店員を制した。
「いや、そっちはいらないんで、これの九号をください」
「もう、直くんってば! ミクはあっちがいいって言ってるのにぃ」
「だから、あっちは咲月のイメージじゃないんだって。咲月に似合うのは、絶対にこっちだ!」
 少しだけムキになって直哉がそう言い返した瞬間、鬱陶しいくらい直哉の腕に絡みついていた彼女が、ガバッと身を離した。
「はあっ!? 誰よ、咲月って!」
 それまでの甘え声とは打って変わりドスの効いた声を出した彼女を、直哉は少しだけ薄気味悪そうに見やった。
「誰って、幼馴染みだよ、俺の。ほら、この間駅前で会っただろ?」
「ああ、あの時あたしの直くんに引っ付いてたあの女ね」
 彼女が”あたしの”という台詞にやけに力を込めて刺々しく言い放つと、直哉の胸にじわりと苛立ちのような感情が滲み出た。
「咲月は俺の隣を歩いていただけで、引っ付いたりはしてなかったと思うけど」
「はん、同じことでしょ。ただの幼馴染みのくせに直くんに媚び売ってたし、色目だって使ってたじゃない」
「色目って……、咲月はそんなことしないよ」
 下降していく気分に比例して直哉の声に混ざる不機嫌さも増していく。だが、頭に血が上っているらしい彼女は直哉の変化に怯むことはなかった。
「大体さぁ、ただの幼馴染みになんで指輪なんか贈るのよ? やっぱりただの幼馴染みだなんて嘘なんでしょ。合い鍵まで渡してさぁ、普通幼馴染みにそこまでする?」
 目をつり上げて責め立ててくる彼女に、直哉は心底うんざりした様子でため息を漏らした。咲月との関係を咎められるのはこれが二度目だったのだ。
「咲月はただの幼馴染みだよ。あの時だってそう言っただろう。これ以上その話を蒸し返すのはやめてくれ」
「だからそれが信じられないって言ってるの! 大学生にもなって彼女でもない女を一人暮らしの家に上げる? それでご飯なんか作ってもらってるんでしょ? おかしいわよ、絶対」
「いい加減にしろって言ってるだろ」
「それにさぁ、いくら幼馴染みだからって大学生の女が好きでもない男の家に上がり込むわけないでしょ。直くんの方はホントに何とも思ってないとしても、あっちは絶対にあたしの直くんを狙ってるに決まってる! 下心があるくせにただの幼馴染みだなんて騙されてるんだよ、直くん。あの雌狐め、いかにも性格が悪そうな顔してたもん!」
 直哉の苛立ちなどお構いなしに彼女が好き放題言い放つ。だが、さすがの直哉も咲月を侮辱する言葉を聞き流すわけにはいかなかった。
「咲月はそんな奴じゃない。咲月を侮辱するのはやめろ」
 怒りのあまり掠れてしまった低音で彼女に釘を刺し、強く睨みつけたけれど、それは火に油を注ぐ結果にしかならなかった。
「ほら、そうやってすぐ庇う! 直くんの恋人はあたしでしょう? 解ってる? だったらクリスマスプレゼントを贈るべきなのは、あの女じゃなくてこのあたしでしょ!」
 自信満々で言い放つ彼女を、直哉は宇宙人でも見るかのような眼差しで見やった。怒りで暴走している直哉の頭では、彼女の言葉が一つも理解できない。どうして出会って間もない女に、ただつき合っているからという理由でプレゼントを贈らなければならないというのか。頭が沸いているとしか思えない。
 直哉が黙っているのを自分に都合良く解釈したのだろう、それまで般若のような顔で直哉を責め立てていた彼女が不意に憑き物が落ちたように媚びた笑みを浮かべ、再び直哉の腕に自分の腕を絡めてきた。
「ね? クリスマスプレゼントっていうのは恋人に贈るものなの。あの女だって、ただの幼馴染みから指輪なんか貰ったって迷惑なだけだし、嬉しくないと思うよ?」
 直哉を上目遣いで見つめ、彼女が艶然と微笑みかける。
「直くんにとってもあの女にとっても、お互いはただの幼馴染みなんだよね? 幼馴染みなんて、偶然生まれた家が近かったってだけの関係でしょ? そんなの、大人になるに連れて疎遠になっていくのが普通だよ。大事な恋人ができたら、なおさら幼馴染みなんかに構っていられないよね。あの子だって、幼馴染みの直くんなんかより自分の恋人の方がずっと大事に決まってるじゃない。っていうか、今頃恋人から指輪とか貰ってるかもね。……ね? 所詮、幼馴染みなんてその程度のものだよ」
 その言葉が、直哉の中の何かを決定的に打ち砕いた。
「黙れ」
「ただの幼馴染みなんかほっときなよ。直くんにはちゃーんとあたしっていう大事な彼女がいるじゃない」
「黙れって言ってるだろっ!」
 ここがどこなのか、直哉の頭からは完全に抜け落ちていた。突然の怒声に、二人を中心として宝飾売場からざわめきが消える。
「何よ……。ミク悪くないもん。悪いのは、他の女にべったりな直くんの方でしょ」
 青ざめた彼女が絡めた腕をほどき、直哉から一歩離れた。恨めしげな上目遣いで、直哉を穴の開くほど睨みつける。
「正直に答えて。直くんはミクとあの女、一体どっちが大事なの!?」
 緊迫した空気が二人を包んだけれど、直哉は内心盛大なため息を吐き出していた。またこの質問か。飽き飽きする。どうして女は自分と咲月の間に優劣を付けたがるんだ。答えはずっと昔からただ一つだというのに。
「そんなの咲月に決まってるだろ」
 一瞬、周囲から息を呑む音が聞こえてきたような気がした。
 直哉は、わなわなと震えながら自分を睨み続けている彼女から眼を離さなかった。今となってはどうしてこの女とつき合うことにしたのか、自分で決めたこととはいえ理解に苦しむ。咲月へのつまらない対抗心で彼女なんか作るんじゃなかったと心の底から悔やんだが、すでに後の祭りだ。
「あっそう」
 重たい沈黙を破ったのは、吐き捨てるようにつぶやかれた彼女の一言だった。
 相変わらず彼女の顔は青ざめていたけれど、きつく噛みしめられた唇は赤く、瞳はひと睨みしただけで相手を殺しかねないほど憎しみの炎が燃え盛っている。
 ふと、直哉の背筋にゾクリと震えが走った瞬間、
「あんたなんか、こっちから願い下げよっ!!」
 全身全霊を込めた金切り声と共に、直哉の頬めがけて強烈なパンチが飛んできた。
「……ってぇ」
 思わずうめいた直哉に「ふんっ」と冷ややかな眼差しだけを投げて、彼女は毛を逆立てた猫のように肩をいからせながら、いつの間にか遠巻きにできていたギャラリーをかき分けるようにして歩き去っていった。
 残された直哉は殴られた頬を押さえて呆然とその後ろ姿を眼で追っていたけれど、周囲のざわめきが戻ってくるにつれて自分がやらかしてしまった失態に思い至り、全身から血の気が引いていくのを感じていた。
 と、その時、
「あのぅ、お客様、こちらはいかがいたしましょう……?」
 恐る恐るといった感じの店員の声が、直哉を我に返らせた。
「あっ、すみません」
 直哉たちが諍いを起こしていた間も、その指輪はずっとビロード張りの台の上に出されていたのだろう。申し訳ないことをしたな、と直哉は猛烈に反省した。
 改めて見てみると、やはり小振りな星のモチーフが付いている指輪は可愛らしく、咲月にとても似合いそうな気がする。
 けれど、購入を決めようとした直哉の脳裏に甦ったのは、今頃恋人から指輪を貰っているかもねという彼女の言葉だった。確かに、咲月は以前好きな人がいるっぽいことを言っていたし、イブをその相手と過ごしていたとしても不思議はない。
 本当に、幼馴染みから指輪を貰っても迷惑なだけなのだろうかという考えが、直哉に迷いを生じさせた。
 それでも。
 と、直哉は思った。
 それでも自分は、やっぱりこの指輪を咲月に贈りたい。
 誰よりも大切な咲月に、自分が贈りたい。
 そして、咲月には。
 咲月には、自分以外の誰からも指輪を受け取って欲しくない。
「あの、これの九号をください。大切な人への贈り物なんです」
 ぎゅっと拳を握りしめ、直哉は言った。
 まだ間に合うだろうか。
 咲月に逢いたい。
 咲月に、どうしても告げなければならないことがある。




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