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 あの日、直哉の曇った目から鱗をはぎ取ったのは”恐怖”という感情だったのかもしれない。
 直哉にとって恋人とは、ほんの一時を共に過ごすだけでいつかは去っていくに過ぎない相手であり、この先もずっと一緒にいたいと思うのは幼馴染みの咲月だけだった。
 けれど、咲月にとっても同じとは限らない。むしろ反対かもしれないのだ。
 幼馴染みの自分こそがいつかは離れていく存在で、恋人が永遠の相手なのかもしれない、と初めて気付かされた。
 少なくともあのミクという名前の女を初めとした世間一般では、それが常識らしい。
 過去に直哉は多くの女性とつき合ったけれど、いつだって咲月以上に大事だと思える存在はいなかったので、咲月の方もそうだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
 しかし、その幻想は脆くも崩れ、直哉に突きつけられたのは厳しい現実だった。
 ――いつか、咲月を失うかもしれない。
 それは考えただけでとても恐ろしいことだった。


 デパートを後にした直哉は、焦燥感に駆られながら咲月の携帯に電話をかけた。
 けれど、何度かけ直しても受話器に流れるのは無機的な音声だけで、咲月が出ない。昔から何事にも几帳面な咲月が充電を忘れるとは思えないので、故意に電源を切っている可能性が高かった。
 嫌な予感が直哉の脳裏を過ぎる。
 迷ったのはほんの数秒だった。直哉はためらいを振り切るように駅に向かって駆け出した。手には受け取ったばかりのデパートの紙袋をしっかりと握りしめて。



◇◆◇




 午後三時を過ぎた頃、直哉は咲月の自宅前にたどり着いた。
 大学に入学してから直哉が実家に帰ったのはほんの数回で、高校時代は毎日のように通った駅から自宅へ続く道もすっかりご無沙汰になっている。その、徒歩十分程度の距離をほぼ走り通して来た直哉は、井川家の前に着くと息を整える間も惜しんで肩でぜいぜいと荒い呼吸をくり返しながらインターフォンを押した。けれど、何度押しても反応がなく、井川家はしんと静まり返ったままだった。
 どうやら咲月だけではなく母親の紗奈恵も留守のようだ。せめて紗奈恵が在宅だったら咲月の行き先を聞き出すことができたのにと思うと、残念でたまらない。
 一気に力が抜けた直哉は人気のない井川家の塀に背中を預けて、そのままずるずると地面に座り込んだ。そして、これからどうしたものかと頭を抱える。
 咲月の家族が頼れないとなると、他に当てにできそうなのは咲月の友人たちだろう。けれど、そこには一つだけ大きな問題があるのだ。
 咲月の小、中学校の友人なら直哉も相手の名前まではっきり知っているし、高校時代の友人も顔くらいは知っている。しかし、大学の友人となるとその存在さえもまったく知らないのだ。
 咲月の居場所を知っていそうなのは今現在つき合いのある大学の友人たちだが、連絡先どころか名前も知らないのだからどうしようもない。
 ならば……、と考えた直哉の脳裏にある人物の顔が浮かんだ。小学校の頃からの咲月の親友である青山めぐみなら何か聞いているかもしれない。咲月とめぐみは本当に仲が良く、高校も一緒だった。つまり、直哉とも小学校から高校まで同じ学校に通っていたわけで、それなりに気の置けない仲でもあったのだ。
 直哉は背中のボディバッグをたぐり寄せてキーホルダーを取り出すと、いくつか付いている鍵の中から自宅の鍵を選び出し、その場にすっくと立ち上がった。
 幸いなことに卒業アルバムは自宅の部屋に置きっ放しにしてあるし、直哉の自宅はここから道を挟んだだけの向かいにある。
 めぐみの電話番号を調べるべく、直哉は数ヶ月ぶりに自宅の門をくぐったのだった。



◇◆◇




 辺りがすっかり暗くなった午後五時過ぎ。直哉は疲れた身体を引きずるようにしてアパートの最寄駅に降り立った。
 結局、めぐみは咲月の行き先を知らず、行きそうな場所の心当たりもないとのことだった。
 しかし、たったそれだけの情報を聞き出すために、直哉はとてつもない苦労をするはめになったのだ。
 めぐみの電話番号は卒業アルバムをひっくり返しただけで簡単に調べることができた。けれど、簡単だったのはそこまでで、肝心のめぐみが不在だったのだ。電話に出たのはめぐみの弟だったらしく、切羽詰まった直哉が行き先を問うとあっさりバイト先を教えてくれたのだが、どうやら変な誤解をさせてしまったようで、「姉ちゃんの彼氏?」などと興味津々な様子で逆に訊き返されてしまった。一応その場で否定はしておいたけれど、もしかしたら帰宅しためぐみに迷惑をかけてしまうかもしれない。
 そうやってめぐみの居場所を聞き出した直哉は、最後にもう一度井川家の留守を確認して、念のため駅前のコンビニや本屋の中などものぞいてからめぐみのバイト先に向かったのだった。ありがたいことにバイト先はここから電車で二駅の距離だったので、容易にたどり着くことができた。
 が、店に押し掛けた直哉を待っていたのは、仕事中のめぐみの「あと三十分で休憩だから待ってて」という無慈悲な言葉だった。仕事中なのだから当然といえば当然の対応なのだが、今すぐにでも咲月の居場所を突き止めたい直哉にとって、その三十分間はまるで拷問のような時間だった。そうやって、やっとのことで対面を果たしたというのに、当のめぐみは咲月の居場所はもちろんイブの予定も知らなかったというわけだ。
 他に当てもない直哉は窮地に陥り、仕方なくアパートへ戻ることにしたのだった。もちろんその間も咲月の携帯と自宅へ何度も電話してみたが、やはり繋がらなかった。
 駅前のロータリーに歩み出た直哉は、いつもとはがらりと様子が変わった駅前広場を見渡してから、偶然空いていたベンチに力なく座り込んだ。十二月の下旬ともなると午後五時を過ぎただけで辺りは暗く、気温も日中よりぐっと下がっている。自分が吐き出した白い息をぼんやりと眺めていた直哉は、何となく視線を上げて広場を見回した。
 広場の中央に設置されているクリスマスツリーは十二月上旬からライトアップされており、日が暮れるとイルミネーション目当てのカップルが何組も訪れていたのだが、イブの今夜はどこかのテーマパークにでも迷い込んでしまったかのような賑わいを見せている。
 幸せそうに微笑む恋人たちの姿がきらびやかなライトに浮かび上がるのを、直哉は空虚な心で眺めた。そして、もしもあの時……、と考える。
『それなら、もしもお互い恋人ができなかったら、イブの夜は駅前のクリスマスツリーの前で待ち合わせることにしない?』
 もしも咲月がイブにこのツリーの前で待ち合わせようと提案した時に素直に了承していたら、咲月は今、あのツリーの前で笑いながら直哉に手を振ってくれていたかもしれない。
 もしもあの時、咲月の”お互いに恋人ができなかったら”という言葉に苛立ちを感じなければ。……というよりむしろ、「もしもなんて言わずに最初から俺と過ごそうぜ」とでも答えていれば。
 けれど、咲月の一言にムッとしてへそを曲げてしまっていたあの時の直哉には、そのように気の利いた返答ができるわけがなかった。
 あの時、咲月はうまく隠しているつもりのようだったが、誰か好きな相手がいるらしいことを直哉は直感的に感じ取っていた。だからこそ”もしもお互いに恋人ができなかったら”と言われた時に、”もしもあたしが好きな人に振られてイブを一人で過ごす羽目になったら”と頭の中で咲月の台詞を変換してしまい、猛烈に腹が立ったのだ。
 咲月が自分を誰かの代役にしようとしている、そのことが悔しくてたまらなかった。
 だから直哉は数日後、タイミング良く友人に誘われた合コンに出席した。そして、その場で言い寄ってきた女と深く考えずにつき合うことにした。
 実をいうと直哉自身はクリスマスというイベントに特に思い入れはなかったし、イブをバイトで潰しても一向に構わないとさえ思っていた。だが、咲月への反発心は何よりも強く、大学生になってからずっと作らずにいた”彼女”を作ることへのためらいまでも吹き飛ばしていたのだ。
 直哉が大学に入学してから誰ともつき合わなかったのは、単に異性とのつき合いが面倒だったからというのもあるが、とある人物に高校の卒業式で、もう好きでもない女の子とは絶対につき合わないと約束させられたのが大きな要因だった。
 その約束を反故にしてまで新たに彼女を作ったのは咲月への対抗心ゆえだったのだが、初めてのデートから帰宅した直哉はすでに自分の選択を深く後悔していた。自分に甘えてくる彼女は可愛いどころか鬱陶しいだけで、映画も食事も時間と金を無駄にしているとしか思えなかった。これならバイトをしている方がずっと有意義だと思ったほどだ。
 暗闇に点滅するライトに彩られたツリーを見るとはなしに眺めていた直哉は、大きく息を吐き出した。虚しさがどっと身体中にのしかかってくる。
 今更ながら思い返してみると、直哉はもう一週間以上咲月の姿を見ていなかった。
 咲月の大学は冬休みに入るのが早かったので、そのせいだと思って気に留めていなかったのだけれど、考えてみれば夏休みの期間だって咲月は週に一度は直哉のアパートを訪ねてくれていたのだ。そして散らかった部屋や溜まったゴミに文句を言いつつ、手際良く家事をこなしてくれた。
 大学が休みなのだから、わざわざ直哉の部屋に寄る理由はなかったはずだ。咲月は直哉のためだけに一時間も電車に揺られて家事をしに来てくれていたのだ。
「だって、放っておいたら直哉の部屋なんてあっという間にゴミに埋もれちゃいそうでしょう?」
 と、咲月は皮肉げな笑みを浮かべたけれど、その瞳がとても優しいことを直哉は知っていた。
 それなのに、もう一週間以上も直哉の部屋を放置しているということは。
 他に、何か大切な用事があるということだろう。例えば、恋人とのデートとか。
 直哉は無意識のうちに唇をきつく噛みしめた。
 そう、もしかしたら、会えなかったこの数日のうちに咲月は片思いだった相手と想いを通わせ、今頃は二人で仲良くクリスマスデートを楽しんでいるかもしれない。
(わざわざ彼女なんか作らなくても、結果的には俺なんか用なしだったっていうわけか)
 自嘲の笑みがこみ上げる。
 今になって自分の本心に気付くなんて、最悪だ。もしかしたら、既に咲月は直哉の手の届かないところへ行ってしまっているのかもしれないのに。
 もう手遅れかもしれない。
 咲月を、失ったかもしれない。そう考えただけで、直哉の胸には太い丸太で貫かれたような痛みが広がった。
 けれど、直哉は今日まで咲月への執着心が恋愛のそれだったなんて考えもしなかったのだから、手の打ちようがなくても仕方がなかったのだ。
 今になって思えば、一人暮らしを思い立った時にアパートの場所を咲月の大学の最寄り駅にしたのは、咲月が放課後に身の回りの世話を焼いてくれることを前提としたものだった。
 それ以前に、そもそも第一志望校を決めた動機だって、直哉が希望していた学部がある大学の中で、咲月が既に推薦で合格していた大学から一番近い場所にある大学だったからかもしれない。
 直哉自身は無意識だったが、咲月と離れたくないという深層心理が大いに関わっていただろうことは十分考えられる。もしも咲月が合格していた女子大が共学で、直哉の志望する学部があったなら、何の迷いもなく受験していたに違いない。
 バカだ。今更気付くなんて。
 自分はなんて愚かだったのだろう。
 直哉は冷たい北風に追い立てられるように腰を上げ、今の自分には明らかに場違いな駅前広場を後にした。



◇◆◇




 直哉の携帯に紗奈恵から電話があったのは、それから一時間近く経ってからのことだった。
 どうやら六時を過ぎてから帰宅した紗奈恵が、異様なほど多い直哉からの着信履歴に驚いて慌てて電話をよこしてきたらしい。
 その電話で、直哉は咲月がデートではなくバイトに出かけていることを知らされた。
 紗奈恵は今日、所属している合唱団の仲間とクリスマス会を楽しんできたらしく、そのメンバーの一人に頼まれて昨夜急に咲月のケーキ屋のバイトが決まったらしかった。
「……娘の頼みだもん、本来なら自分が手伝ってあげたかったみたいなんだけど、今日ってほら、クリスマス会の予定が入っていたじゃない? それにね、ケーキの売り子は若い子の方が良いらしくって、それで咲月の予定がなかったらって頼まれちゃってね」
 楽しげにそんな事情を語り続ける紗奈恵の言葉を、直哉はほとんど聞いていなかった。
 生返事を返しながら、壁に掛けてあるバイクのキーを見やり、頭の中に地図を広げて目的地への道順をたどる。咲月がいるケーキ屋は自宅から電車で三十分程度の距離だけれど、直哉のアパートとはちょうど逆方向に位置していた。時刻を考えると大通りは渋滞が酷そうだが、バイクならあまり影響を受けずに走れそうな気がする。しかし、夏に購入した愛車は通学やバイトの往復など限られた地域でしか使ったことがなく、自宅までの距離でさえ無事にたどり着けるかどうかもかなり怪しい。その上、直哉にはケーキ屋が店を構えている街の土地勘が全く無かった。これではいくら早く着けるとしても、結局は迷子になるのがオチだろう。
 そこで今度は頭の中の地図を路線図に置き換え、ケーキ屋の最寄り駅とそこへ至る経路を思い描いてみる。ここから自宅までは電車で一時間だということを考えると、乗り換えさえ上手くいけばこちらの方がずっと安全だし確実だ。
 そう結論を出した直哉は、じりじりと紗奈恵のおしゃべりが終わるのを待ち続け、話がひと段落したとおぼしき瞬間、失礼にならない程度のお礼を言って一方的に電話を切った。
 どうやら咲月のバイトは八時で終了らしい。そして直哉の部屋から咲月がいるケーキ屋までは軽く見積もっても一時間半近くの時間がかかる。つまり今から部屋を出ると、着くのは早くても七時半過ぎになるということだ。もう行き違いになるのだけはごめんなので、バイトが終わる前に現地に到着して確実に咲月を捕まえなければならない。
 直哉はデパートの袋からリボンのかかった小箱だけを取り出して財布と一緒にコートのポケットに捻じ込み、放り投げたまま床に転がっていた部屋の鍵を掴むと、飛び出すようにアパートを後にした。




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