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(咲月の奴、俺が急に現れたらびっくりするぞ)
 無事に電車に乗り込んだ直哉は、規則的な振動に揺られているうちに、胸が苦しいほどに充満していた焦燥感が薄らいでいくのを感じていた。車内の暖かさのせいだろうか、心身共に緊張感がほぐれて今後の展開を楽しむ余裕さえ生まれている。
 咲月の予定がデートではなくバイトだった。
 この事実が直哉に多大な安堵感を与えていたのだ。しかも先程の電話で、紗奈恵が最初からイブの予定がなかった咲月の暢気さを嘆いていたことから考えると、そもそも咲月にはイブを一緒に過ごしたいと思っている相手さえいなかったのかもしれない。直哉に言ったあの台詞も裏の意味などなく、単純に、暇だったら一緒にイブを過ごそうよ程度の軽い誘い文句だったのかもしれない。
 それはそれで淋しいな、などと勝手なことを考えて、直哉は車窓に映る自分に向かって自嘲の笑みを浮かべた。



 そうやって、やっとのことで咲月のいるケーキ店にたどり着いたというのに。
 なんと、当の咲月は見知らぬ男に口説かれている真っ最中だった。
 駅の改札口から、駅前に連なる商店街のほぼ中央部にあるケーキ店まで走り通してきた直哉は、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しながら目の前の光景を呆然と眺めることしかできなかった。
 赤いサンタクロース風の衣装に身を包んだ咲月が、頬をうっすらと染めて客らしき若い男に戸惑いの眼差しを向けている。相手の男には見覚えがなかった。大学生なのだろうか、直哉や咲月とさほど変わらない年頃に見える。髪は黒く、紺色のダッフルコートにジーンズといういでたちは少々地味だけれど、眼鏡をかけた横顔から受ける印象は真面目で誠実そうだ。
 その男が必死とも思えるような熱心さで咲月に何事かを語りかけ、対する咲月は困惑を隠せない様子ながら、まんざらでもなさそうにも見える。
 直哉の位置からでは二人の会話の内容までは聞き取れないけれど、咲月の警戒心の薄さを見れば二人が初対面ではなくそれなりに見知った関係だということは一目瞭然だった。
(あいつ……)
 直哉はその場に石像のように立ち尽くしたまま、震える拳を握りしめた。
 頭の中は空っぽだった。
 直後、直哉の心を占めたのはマグマのように熱くたぎった感情だった。
 考えるよりも早く、直哉は男の背中まであと数歩という位置まで歩み寄っていた。そうすることで二人の会話がより鮮明に聞こえてくる。それは一瞬、ケーキ屋の店員と客のありふれたやりとりのようにも思えたけれど、注意深く聞いてみれば、咲月が遠回しな台詞で口説かれているのは火を見るよりも明らかだった。
 直哉は自分の存在に気づくことなく相手の熱意に呑まれかけている咲月に、殺意にも似た感情を覚えた。
 ギリギリのところで踏ん張っている咲月だけれど、陥落するのは時間の問題のように思える。というより、相手の男があと一押しすれば呆気なく落ちてしまうだろう。
 だから。
 直哉は男が最後の一手を指した瞬間、
「……悪りぃけど、そのケーキ、売約済みなんだ」
 と、二人の会話に割って入っていた。
 胸が酷くムカムカしていた。怒りの矛先が向いているのは眼鏡野郎なのか、それとも咲月なのか直哉にも分からない。自分が何を言っているのかさえ分からないでいた。
 熱いマグマから一転した、青い炎のように静かな怒りに身を任せる直哉の胸中にあるのは、咲月を渡したくないというただ一心だったのだ。
「なっ、直哉……?」
 という素っ頓狂な声で顔を向けると、目を丸くした咲月が穴が開きそうな勢いで直哉のことを凝視していた。
 幽霊でも見たかのような愕然とした表情に、ほんの少しだけ胸がすくのを感じる。そして、あまりにも無防備な顔をしている咲月を抱きすくめてしまいたい衝動に駆られて、直哉は唇を一文字に引き結んだ。まずは、自分と咲月の間に立ちはだかる障害物を取り除くのが先だ。
 咲月から再び目の前の邪魔な背中に視線を移した直哉は、今すぐ脇に押し退けてしまいたい衝動を堪えて、
「悪いね、兄さん。今日のケーキは完売です。またのご来店をお待ちしていますよ」
 と、感情を押し殺した声で告げた。
 だから帰れ、という思いをびくりと振り向いた邪魔者に眼だけで語りかけてから、咲月には彼女と別れたことを淡々と報告する。
 それだけで、咲月の動揺が明らかに大きくなった。
 直哉はさりげなく一歩進んで男の隣に並び立ち、その横顔へ窺うような視線を向けた。
 男は突然現れた直哉に怯むこともなく、ただ黙って咲月を見つめていた。
 半ば茫然自失としているらしい咲月が、そんな男に揺れる眼差しを向ける。
 ほんのひと時、二人は直哉の存在を忘れたかのように見つめ合った。
 次の瞬間、
「井川さん、ケーキは売ってもらえないようだね」
 微かな笑みを浮かべて男がぽつりとつぶやいた。
(こいつ……)
 その言葉で直哉の胸に敗北感にも似た感情が広がった。
 直哉には咲月のことを一番解っているのは自分だという自負がある。二人が積み重ねてきた十九年という年月に太刀打ちできる者など誰もいないはずだった。
 けれど、直哉よりずっとつきあいが浅いはずのこの男は、ほんのわずかな時間視線を絡めただけで咲月と何事かを語り合えたらしい。隣にいる直哉には、咲月の心中など何一つ分からなかったというのに、だ。それほど、咲月への想いは深いのだろうか。もしかしたら恋心を自覚したばかりの自分などより、ずっと。 
 直哉はぎゅっと拳を握りしめた。と、その時、
「山本くん……」
 微かに震えている咲月の声に、直哉はハッと息を詰めた。
「……ごめんなさい」
 しかし、蒼白な顔をした咲月の口から謝罪の言葉が紡がれた瞬間、強ばっていた肩からどっと力が抜ける。どうやら直哉は自分で感じていた以上に緊張していたようだ。
 もしかしたら負けるかもしれない、とわずかに弱気になっていた直哉は、咲月が断ったという事実に呆然としていた。
 だから、男が咲月との短いやり取りを終えた後、直哉に向かって挑戦的な台詞を吐いてきた時に、何一つ言い返すことができなかったのだ。
 去っていく男の背中を咲月と二人で見送る直哉の胸に去来したのは、やはり敗北感に近い感情だった。
 無言で男を見送る咲月も、心なしか沈んでいるように見える。その瞳に浮かぶ感情は、後悔なのだろうか。いつまでも男が消えた方向から眼を離さない咲月に、直哉はわずかに胸がひりつくのを感じていた。
 けれど、だからといって二人を包む沈んだ雰囲気にいつまでも浸っていられるほど、直哉が繊細な心を持ち合わせていないのもまた事実だったので。
 場の重い空気を微かな胸の苛立ちと共に吹き飛ばすように、
「うわっ、怖えぇ……」
 と、直哉は軽薄とも思える態度でおどけてみせた。
 その言葉で我に返ったのだろう、それまで沈黙を通してきた咲月が、
「なに言ってんのよ! 突然現れて、あんたが失礼なことを言ったからでしょう! 大体、なんで直哉がここにいるのよ!?」
 と、感情をむき出しにした声で直哉を咎めた。その、本来の調子に近い咲月の態度に、直哉のテンションがぐんと上がっていく。
 やはり咲月には先程までのしおらしい態度よりも、こうしてお姉さん振った口調で生き生きとお説教をしている方がずっと似合う。
 それだけ、初めて見た瞳を潤ませて戸惑う儚げな咲月の姿が、自分にとって衝撃だったことを直哉は改めて思い知っていた。あんな咲月は知らない、あんなのは咲月らしくないと全否定してしまうほどに。
 そしてその現実逃避が、直哉の焦燥感をますます高めていく。咲月と会話を交わしながらも、直哉は訳の分からない苛立ちにさいなまれ、戸惑っていた。
 立ち去った男や売れ残ったケーキのことばかり気にする鈍感な咲月に、今すぐ何もかもをぶつけてしまいたいという凶暴な気持ちさえ湧いてくる。
 未だに戸惑いが完全には抜けきっていないらしい咲月の口調もどこか歯切れが悪く、直哉の心に油を注ぐ結果になっていた。
 堪えきれなくなった直哉はそれまでの会話を「……それより」と区切り、
「前に言ってた、クリスマスを一緒に過ごす恋人の当てってあいつのこと?」
 と、咲月に向かって問い質していた。
 直哉が一番気になっているのは、以前咲月が言っていた"クリスマスを一緒に過ごす当て”というのがさっきの男のことだったのか、ということだけだったのだ。ケーキの行く末など、正直どうでもよかった。
 紗奈恵との電話で可能性はかなり低くなっていたものの、やはり咲月には好きな男がいたのだろうか、それがさっき自分がにべもなく追い払ったあの男だったのだろうか、という不安がどうしても拭いきれない。
「ごめんなさい」と謝ったのは咲月の方なのだから、咲月があの男を振ったと考えるのが妥当かもしれない。けれど、改めて不躾だった自分の態度を思い返すと、それに腹を立てた男に対して咲月が直哉に代わって謝罪したという可能性もあるような気がする。けれど、男の方は咲月を口説く気が失せて立ち去ってしまったというわけだ。
 なにぶん、直哉には咲月とあの男が見つめ合っていたわずかな時間に、二人の間にどんなやり取りがあったのか見当もつかないので、咲月の本心がどこにあるのか解らず、不安でたまらないのだ。
 息を詰めて一挙一動を見つめていたというのに、ハッとした表情を浮かべた咲月は直哉の視線を避けるようにうつむいてしまった。
 はっきり否定しない咲月の態度に落胆の気持ちが湧いてくる。
 と、汗ばむ拳を握りしめた直哉の耳に、ジングルベルの音楽に紛れて独り言のような咲月のつぶやきが届いた。
「そんなの直哉には関係ないもん。……大体、自分の方こそ彼女と別れたって、どういうことよ?」
 頑なに下を向いたままの咲月のつむじを眺めているうちに、直哉の身体から力が抜けていった。
 昔から咲月は何も分かっていない。
 いつだってその問いに対する答えは一つだというのに。
 改めて思い返してみると、直哉は常に咲月の方を選んできた。ただし、その意味を深く考えることはなかったけれど。
 物心ついた頃から……、いや、もしかしたらそれよりずっと前から、直哉にとっては咲月だけが特別な存在だったのだ。
 恋心を自覚した今では、こうして向かい合っているだけで愛しさばかりが止めどもなくあふれてくる。
 直哉は半分諦めにも似た気分で微笑んだ。
「……お前のせいだよ。俺が女と別れるのは、昔からいつだって咲月のせいなんだ」
 当たり前だ。誰と付き合ったって咲月以上に大切だと思える者などいなかったのだから。直哉とつき合った彼女たちはそれを敏感に感じ取り、不安を膨らませていたのだろう。最後には黙って別れを告げたり、逆に直哉に咲月との関係をしつこく問い質したり、なじったりして去っていった。
 それなのに、振られた直哉の方は特にショックを受けたり落ち込んだりしたことは一度もなかったのだ。
 いかに自分がいい加減なつき合いばかりを続けてきたのか思い知らされる。
 直哉はやや自暴自棄な気分で、ぽかんと自分を見上げてる咲月に向かって今回の失恋の顛末を語り始めた。
 ――けれど、
「咲月ちゃん?」
 いつの間にか咲月の背後にやって来ていた店員らしい女性に呼びかけられて、話の腰をあっさり折られてしまった。
 彼女の登場で我に返った直哉も、ここがどこなのかを思い出してきまりの悪さを感じた。そういえば咲月はバイトの最中だったのだ。
 本来なら咲月の仕事が終わるのを待って話をしようと思っていたのに、男に口説かれている姿を見かけた途端、頭に血が上って咲月の都合も忘れてしまっていた。
 咲月が美夜子と呼んだこの女性が紗奈恵の友人の娘で、この店の店長なのだろうか。何やら話している二人の姿をぼんやりと眺めながら、直哉は自分の短気さを大いに反省していた。
 これ以上自分がここにいても邪魔になるだけだろう。咲月に待ち合わせ場所だけを告げて、部外者はさっさと退散するに限る。
 そう決心した直哉は、美夜子がパチンと両手を打ち鳴らした音で我に返り、思わず咲月と顔を見合わせた。
「……だけど、やっぱりこのケーキは売れ残っちゃったのね」
 そして、売れ残っているケーキを嘆いている美夜子につられるようにテーブルの上を見やり、自分がそれを買い取ると大見得を切ったことを思い出した。
「あ、そのケーキなら、今俺が買ったところです。えっと、お幾らですか?」
 と問いかけながら、コートのポケットに入れてきたはずの財布を探して悪戦苦闘していた直哉の頭を、ふと嫌な予感が過った。
 今日はミクとのクリスマスデートのために、現金はいつもより多めに財布に入れてきたはずだ。けれど、その金はデパートで……。
「五千円」
 直哉の心境など知るはずもない咲月に冷たく言い放たれ、全身からさっと血の気が引いた。
 そうだ、思いがけないアクシデントでデートの予定が流れたので、咲月のために選んだあの指輪は財布に入っていた現金をはたいて買ってしまったのだ。ミクに今夜はフレンチのレストランを予約していると言われていたのでそれなりの金額は用意していたのだが、デパートで使ってからは一切お金の補充をしていない。
 高校の頃から恋人に品物を贈るという考えは持ち合わせていなかった直哉だけれど、食事に関してだけは別で、コーヒー代なのどのささやかなものから夕食代に至るまで、彼女と食事を共にした時は常に直哉が代金を支払ってきた。共働きの両親は直哉の夕食代にと充分な金額を持たせてくれていたし、一人ではコンビニ弁当にでもなりかねない夕食に付き合ってもらうのだから、自分が支払うのが当然だと考えていたからだ。
 というわけで、イブの今夜もディナーだけはご馳走する心づもりでいたのだが。
 デパートで咲月のために買った指輪はそれほど高価ではなく、持っていた現金で購入することはできたけれど、財布の中の残金は五千円には満たなかったと思われる。そこから更に、ここまでの電車賃まで引かれているのだから、自分が五千円もの大金を所持していないことは、わざわざ財布の中を確認しなくても明らかだ。
 だからといって、咲月に向かって二度も自分が買い取ると豪語してしまっていることを考えると、ここで購入をキャンセルするのはあまりにも情けないだろう。
 と、その時、進退きわまった直哉を救ってくれたのは、
「そうだ、売れ残りのケーキでも良かったらお二人に差し上げるわ。今日は咲月ちゃんのおかげで助かっちゃったし、ささやかなボーナスってことで」
 という、美夜子の天使のような一言だった。
 ふんわりとした笑顔でケーキを差し出す美夜子に恐縮しながら、一人で食べるにはあまりにも大きなケーキを受け取り、直哉はこっそり胸をなで下ろした。そして今度こそこの場を離れようと、引き留める美夜子をやんわりと断ってから咲月に向かって耳を貸せと眼で合図を送る。
 けれど、咲月はきょとんと目を見開いただけで、直哉の意図に気付く素振りもない。
 さっきはあの男と眼だけで会話していたくせに。そう思うと直哉の胸には苦い思いが広がり、咄嗟にテーブルの向こう側にいる咲月に向かって身を乗り出して、小声でささやいていた。
「約束のクリスマスツリーの前で待ってる」
 そう口に出した途端なぜか照れ臭さが込み上げ、直哉はぎこちない笑みを浮かべた。
 相変わらず呆けたように自分を見つめている咲月に「わかった?」と念を押した直哉は、頷く咲月の姿を横目で確認してから美夜子に向かって丁寧に頭を下げた。
「それじゃ、このケーキどうもありがとうございました。あと、咲月の仕事を邪魔してしまってすみませんでした」
「いいえ、どういたしまして」
 と微笑む美夜子に笑顔を返し、直哉は相変わらず微動だにしない咲月にひらひらと手を振る。そして、駆け出したい衝動を堪えながら温かな明かりの灯るケーキ店を後にした。
 間もなく八時を迎えようとしているアーケードは先ほどよりずっと行き交う人の姿が減り、連なる店舗もいくつかシャッターを閉め始めているけれど、駅へと急ぐ直哉の眼にはこの上なくきらびやかな通りに映った。
 身を包む空気は刺すように冷たく、吐く息が大気中を白く漂う。冷たくなった鼻を指でこすった直哉は、アーケードの天井を仰いで盛大に息を吐き出した。
「ツリーの前で待ってる、……か」
 自分の台詞をやけにくすぐったく感じて、直哉は思わず口元を緩めた。
 そして、賑やかなジングルベルのリズムに合わせて勝手にスキップしそうになる足に辟易しながら、片手に下げたケーキの箱に細心の注意を払いつつ、足早に駅に向かったのだった。



◆◇◆



 その後のことは、三週間が経った今でも鮮明に覚えている。
 それなのに、どこか現実感が希薄で夢でも見ていたような感覚に陥るのも、また事実だ。
 直哉はギュッと瞑っていた目を開けてぼんやりと駅前広場を見渡した。暗闇に逃げ込んでいたのはせいぜい十数秒といったところだろうが、暗さに慣れたせいか星明りと街灯に照らされた広場の様子がさっきよりもくっきりと見て取れる。メイン広場はバス停のあるロータリーに沿って半円の形になっており、左右のちょうど真ん中になる部分に丸い花壇が配置されている。そこからロータリーを背にして真っ直ぐ進むと駅の改札口だ。つまり、改札口から見るとアルファベットのYの字のようにレンガ敷きの広場が広がっており、三方向の敷地がぶつかる部分が丸い花壇になっているというわけだ。
 半円を描いている部分に配置されているベンチに座っている直哉は、少しだけ首を捻って花壇を眺めた。今はキャベツのような花が整然と並んでいるけれど、三週間前には立派なモミの木が煌びやかなライトをまとってそこに立っていた。広場は恋人たちの姿であふれ、街路樹や背丈の低い植え込みまでが星を散りばめたようなイルミネーションに彩られて、まるでおとぎの世界に紛れ込んだかのような華やかさだった。
 美夜子の店を後にした直哉がこの駅にたどり着いたのは九時をちょっと過ぎた頃で、ちょうどライトアップの終了時刻だった。広場からは潮が引くように人混みが消えていく。直哉は改札から出て来るはずの咲月の姿を見つけやすいように、半円のメイン広場へと続くレンガ敷きの通りから脇に続く小道に入り、眼に留まったベンチに腰を下ろした。
 この駅は住宅街の中の小さい駅だけれど、規模に反して駅前はレンガ敷きの広場を中心としたちょっとした公園のようになっており、駅から広場に続く道の両側は芝生が敷き詰められ、ぬうように樹木や小路がいくつか配置されている。昼間は小路を散歩する親子連れや老人も多く、住民の憩いの場所になっているというわけだ。
 昼間の和やかな風景から一変した暗がりのベンチに座った直哉は、そこで緊張で胸を高鳴らせながら咲月を待ち続けた。
 掌には汗が滲み、身体はガチガチに固まっていた。咲月が好きだと自覚した時の勢いのまま、何も考えずにここまで突っ走ってきたけれど、いざその想いを咲月にぶつける段になって初めて直哉は事の重大さを認識したのだ。
 咲月に恋心を告白することだけを考えてきたけれど、聞かされる咲月の方は一体どういう反応をするだろう。やはり、ただの幼馴染みの告白など迷惑なだけなのだろうか。
 昼間聞かされたヒステリックなミクの声が頭の中をぐるぐると回り、胸苦しさが増大していく。
 膨らみ続ける緊張と不安に押しつぶされそうになっている直哉を尻目に、名残を惜しむようにツリーの前で語らっていた最後のカップルが改札の向こうへと消えて行き、とうとう駅前広場には直哉以外誰もいなくなってしまった。
 ポケットから携帯を取り出して確認すると、直哉がこの場所に到着してから既に三十分以上が経過していた。咲月のバイトが外の売り場の片付けで終わりなら、そろそろ着いてもいい頃だ。樹々の合間から改札口を見やった直哉の耳に、ふと規則的な電車の音が聞こえてきた。その音がだんだんと大きくゆっくりになり、ブレーキ音と共に止まる。
 やがて、明るい光がこぼれる改札口の向こうに次々と人の姿が現れだした。家路を急いでいるのだろう、自動改札を通り抜けた群れは、白い息を吐きながら思い思いの方向へ足早に散っていく。その流れをぼんやりと眺めていた直哉の鼓動が、ある予感をともなって急激に早まった。
 と、人波が途切れ始めた改札口に、白いコート姿の咲月が小走りで駆け寄ってくる姿が見えた。
 思わず腰を浮かせた視線の先で、前を歩いていたサラリーマンを追い抜いた咲月が自動改札を通り抜けた。そして、速度を緩めることなく広場に向かって走ってくる。駅を背にした咲月は逆光のため黒いシルエットのようになってしまったけれど、直哉の眼にはホームから走ってきたせいか真っ赤に染まっていた頬が焼き付いていた。その赤が、ぎりぎりまで高鳴っていた直哉の胸に火をつけた。
 ――それから。
 あの夜をありありと思い出していた直哉は不意に激しく頭を振り、片手で額を押さえた。
 改札口から走り出してきた、咲月。
 プレゼントに目を見開いた、咲月。
 想いを告げられて泣いた、咲月。
 そして、触れた頬の冷たさ。
 抱き寄せた身体の柔らかさ。
 今でも直哉の両手ははっきりと覚えている。コート越しに感じた咲月の身体の感触も、絹のようにしっとりとした髪の感触も。
 何よりも、重ねた唇の熱と弾力を。
 それらは、三週間経った今でも思い出しただけで身体をカッと熱くさせ、甘い痺れとなって全身を駆け抜ける。
 わずかに熱を帯びてしまった吐息を闇に漂わせ、直哉はゆっくりと天を仰いだ。
 三週間前のあの夜、直哉はこの広場で咲月を抱きしめ、口付けた。それは夢でも幻でもなく、現実に起こった出来事だったはずだ。
 それなのに、ツリーのてっぺんに輝く青星を指さして微笑み合った二人の姿をとても遠く感じる。
 記憶に残る咲月の感触も、まるで自分が妄想した産物のように思える。
 自分の手が実際に咲月に触れたなんて、今の直哉にはとても信じられなかった。
 なぜなら。
 あれから、直哉は一度も咲月の身体に触れていないからだ。
 否。咲月に触れられない、触れたいのにどうしても触れられないからだ。
 直哉は汗ばんでいる右手をポケットから出して、目の高さまで掲げた。
 ほら、今日もこのとおり、咲月の手を握るはずだったこの手は、何の働きもせずに汗だけを握っている。
 凍てついた大気が、熱いほどだった右手を急速に冷やしていく。
(こんな役立たず、いっそ氷漬けにでもなっちまえばいい)
 胸の内で毒づき、直哉はきつく唇を噛みしめた。
 想いが通じ合ったのだから、本来なら、咲月と直哉はもっと幸せな日々を過ごせているはずだ。それなのに現実は、焦りや苛立ちばかりが渦巻いている。くり返されるのは、バラ色とはかけ離れた、灰色で殺伐とした毎日。
 直哉自身、どうしてこうなってしまったのかが解らない。
 いや、きっかけは確かにあった。けれどもそれは、取るに足らない、ほんの些細な出来事だったはずだ。
 直哉は苦虫を噛み潰したような思いである人物の顔を思い浮かべた。
 ――あの日、あの男にさえ出会わなければ……。
 そう、この忌まわしい現状はすべて、二週間前、元日の神社で始まったのだ。




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