5


 一月一日、元日。
 新しい年の始まりであるこの日、世界は今年一年間の吉兆を告げているかのようにすがすがしく、何もかもがきらめいて見えた。
 自宅の塀に寄りかかって道路の向かい側に建つ井川家の二階を眺めていた直哉は、いつもより幾分早く打っている鼓動にくすぐったさを感じながら、窓の向こう側で慌ただしく出かける準備をしているだろう咲月の姿を想像してだらしなく頬を緩めた。
 約束の時間まではあと十五分もある。待ち合わせ場所はお互いの家の前なので一分前に家を出ても余裕で間に合うのだが、朝から気もそぞろでそわそわと落ち着かない気分だった直哉は、外の冷えた空気で頭を冷やそうと予定よりもずっと早く玄関を出て来たというわけだ。
 それなのに、頭が冷えるどころか、あの窓の向こうに咲月がいると思うだけでむしろどんどん熱くなっていく。これではかえって逆効果だったかもしれない。
 直哉は勝手にニヤてくる口元を隠そうと、首に巻き付けているマフラーを引き上げて顔の下半分近くをうずめた。まだ新しいマフラーはふんわりと柔らかく、春の陽射しのような暖かさで身体だけではなく心まで包んでくれる。頬にあたる布地の心地良さに、直哉はうっとりと目を細めた。
 実はこのマフラーは、クリスマスプレゼントとして咲月から贈られた物なのだ。
 二人の関係が幼馴染みから恋人へと変わったあの夜、ツリーの前でキスを交わして抱き合っていた二人は、時刻が午後十時を過ぎていることに気付いて慌てて直哉のアパートへ向かった。そして、部屋を暗くしたまま、直哉が美夜子からもらった大きなケーキにろうそくを灯して、二人っきりでロマンティックなイブを過ごした。
 ……と言いたいところだが、実際は部屋を暗くしていたのは乱雑に散らかった部屋の惨状を咲月に見られたくなかったからであり、コーヒーを淹れようとキッチンに立った咲月にあっさりとその魂胆を見破られると、その後はイブだというのに容赦なく部屋の片付けをやらされる破目になったのだった。
 それでも、咲月なりに少しは気を使ってくれたのだろう、とりあえずローテーブルの周りに散らかっていた衣類や雑誌を片付け終わるとそれ以上の指示はなく、それどころかきれいにカットしたケーキとコーヒーを出して直哉の働きを労ってくれたのだ。まだ雑然としている部屋で二人は慌ただしくケーキを食べ、十時四十五分を過ぎた頃に二人そろって部屋を出た。
 あまりにも遅くなってしまったので、電車で咲月を家まで送って直哉もそのまま自宅に泊まることにしたのだ。
 いつもなら咲月は六時頃までにはアパートを出るので、直哉も玄関かせいぜい駅前までしか見送らない。けれど、この夜は下手をしたら咲月が家に帰り着くのが午前零時を過ぎてしまう恐れがあったので、さすがの直哉も心配になったのだ。
 もちろんそれは表向きのことで本音は口が裂けても言えないけれど、咲月と離れがたかったからというのが大きかった。
 二人は手を繋いで駅まで歩き、手を繋いだまま電車に揺られて、手を離すことなく自宅前まで歩いた。そして、磁石のようにぴったりとくっついている手のひらを名残惜しげに離して、それぞれの自宅へと別れたのだ。
 翌日のクリスマスは、直哉は午前中からバイトの予定が入っていたので朝早くにアパートに戻らなければならず、咲月の方は夜に大学の友人とクリスマスパーティーをする予定になっていたので、残念ながら昼も夜も会うことができなかった。
 けれど、バイトが終わってアパートに戻った直哉が見たものは、見違えるようにきれいになっている部屋と、ローテーブルの上に並んでいるご馳走、それからベッドの枕元に置かれたプレゼントだった。
 どうやら友人との待ち合わせ時間までの間に咲月が部屋を訪れて、掃除や洗濯をこなし、料理まで作っていってくれたようだった。プレゼントは来る途中で買ってきたらしく、見慣れた地元のデパートの包装紙を開けると、中には直哉の好きな深緑色を基調としたチェックのマフラーが入っていたというわけだ。
 咲月からは毎年なにかしらクリスマスプレゼントをもらっていたけれど、それらはストラップや文房具などせいぜい五百円程度のもので、ただの幼馴染が贈るのに相応しい物ばかりだった。
 それなのに、今年はマフラーだ。ブランドの刺繍が入ったそれは、滑らかな肌触りもふんわりとした暖かさも極上品だということを語っている。ただの幼馴染みには絶対に贈らないだろう。この品は、恋人のプレゼントにこそ相応しい。
 ”恋人”
 その言葉で再びくすぐったさに襲われた直哉は、緩んでいく口元をマフラーの上から片手でそっと押さえた。そして、誰かに見られているわけでもないのに、誤魔化すように二回咳払いをして、そんな自分に気恥ずかしさを覚えて更に笑みを深くした。
 早く咲月に逢いたい。
 最後に咲月と会った日から、もう一週間と一日だ。
 つまり、イブのあの夜を最後に直哉は咲月と会っていないのだ。
 両親がいまだに共働きをしている北村家では、家族全員がそろう機会は年に一度の正月くらいしかない。特にエンジニアをしている父親は年単位で海外の現場に出張――というよりほとんど単身赴任状態になっているので、家に戻れる機会は本当に貴重だった。そのため、直哉は大晦日に帰国する父親に合わせて年内には自宅に戻るように母親から厳重に言い渡されていた。
 直哉が年末のバイトのシフトを組んだのは十二月の初めで、その時にはまさか自分が咲月と付き合うことになるとは予想もしていなかったため、母親との約束の期限ぎりぎりである大晦日の夕方までバイトの予定を入れてしまっていたのだ。年末は人手が足りないこともあり、直哉は貴重な人材としてイブの翌日から休む間もなく働くことになっていた。
 咲月の方も直哉と恋人同士になるのは想定の範囲外だったらしく、友人と遊びに行ったり、冬休み限定の短期バイトをしたりと連日のように予定を入れてしまっており、残念ながら二人のオフが重なる日は新年を迎える一月一日までなかったのだ。
 もちろん、会えない間もメールや電話のやり取りは欠かさなかった。
 けれど、やはり咲月の顔さえ見られない毎日は非常に物足りなく、さすがの直哉も一抹の淋しさを感じずにはいられなかった。
 逢いたいという想いばかりが募り、恋しさがどんどん膨らんでいく。
 特に、昼間のバイトを終えて帰って来た部屋のそこかしこに咲月の気配が残っている時などは、胸がぎゅっと苦しくなって、今まで感じたことのない感覚が直哉自身をわずかに戸惑わせたりした。
 クリスマスの日は直哉に内緒でアパートを訪れた咲月だけれど、それ以降は前日にメールで訪問を予告するという通常のスタイルに戻っていたので、直哉はバイトで部屋を留守にしている間に咲月がアパートに来ていることを知っていたのだ。だからこそ、(今頃は咲月が俺の部屋に……)と何度も歯がゆい思いをしていた。けれど、仕事を終えて急いで戻ったアパートにはもちろん咲月の姿はなく、きれいになった部屋だけがよそ行き顔で直哉を迎えるだけだった。
 多忙なはずの咲月は、暇を縫うようにしてわずかでも時間がある時は直哉の部屋を訪れていてくれた。それでも、部屋の主とはすれ違い続きで、とうとう会えず仕舞いだったのだ。
 その、夢にまで見た咲月との逢瀬がやっと叶うのだ。
 直哉の高揚感は最高潮に達し、空でも飛べそうな心境だった。
 正月は絶対に帰って来なさいと何度も釘を刺してくれた母親には、いくら感謝してもし足りないくらいだ。
 お互いのスケジュールを確認して、唯一空きが重なっているのが元旦だと判明した時、二人は迷うことなく初詣の約束を取り交わしていた。咲月とは毎年近所の小さな神社にお参りに行くのが正月の恒例行事になっていたけれど、今年は少し足を延ばして、市内で一番大きな神社に行くことになっている。
 近所の神社には小さな社と賽銭箱があるだけでおみくじさえないのだが、これから行く神社はこの辺りでは一番の規模ということもあり、参道には屋台が並び、大勢の人出で賑わっている。人混みは苦手だけれど、咲月と連れ立って出店をのぞくのはさぞ楽しいだろう。何より、とてもデートっぽい。
 上機嫌で空を仰いだ直哉は、浮かれた気分のままに短く口笛を吹いた。その響きに重なるように、井川家のドアがガチャリと開く音が聞こえてくる。
 続いて届いた、
「いってきまーす」
 という朗らかな咲月の声に、直哉の心臓が激しく反応した。
 顔は上に向けたまま、眼だけで井川家の玄関をうかがう。直哉と咲月の家の間には幅六メートル程の道路があり、お互いの家の玄関の位置も斜めにずれているのだが、直哉が立っている位置からなら塀の向こうの玄関くらいならかろうじて見て取ることができる。けれど、空を仰いだままという姿勢そのものに明らかに無理があり、開いているはずのドアさえはっきりと見ることができない。
 はやる気持ちとは裏腹に、直哉は錆びついたロボットのようにギギギと首を動かして井川家の玄関に顔を向けた。心臓が異様にドキドキと高鳴り、手のひらには汗が滲んでくる。
 と。
 息をするのも忘れて井川家のこげ茶色の扉を凝視していた直哉は、その陰からやけにゆっくりと咲月の姿が現れた瞬間、頭の中が真っ白になって思考が完全に停止した。
 直哉の位置からは陰になっていて見えないが、開いた扉の向こう側には紗奈恵がいるのだろう、振り返った咲月が笑顔で何やら頷いている。そして、紗奈恵に手を振って回れ右をした咲月の視線が、ふと何かを追うようにふわりと直哉の方に流れてきた。
 バチッと音がしそうな勢いで二人の視線がぶつかる。
 一瞬の空白の後、硬直したまま瞬き一つできずにいる直哉とは対照的に、咲月の方は花がほころぶように晴れやかな笑みを浮かべて小さく片手を振ってきた。そして、急ぎ足で門まで進むと慌てた様子でレバーを回して、開いた隙間から直哉のいる自宅前の通りにその全身を現した。
 その間も直哉は石像のように微動だにせずその場に突っ立ていたのだが、距離が近くなったことで咲月もいつもとは違う直哉の様子に気付いたのだろう、笑みを引っ込めると訝しげに小首を傾げ、一歩、また一歩と慎重な足取りで北村家の玄関先へと近付いてくる。
 ついに直哉までの距離があと三歩ほどになったところで咲月は足を止め、微かに不安の入り混じった表情を浮かべたまま、
「おはよう、直哉。……えっと、あけましておめでとう」
 と、ぺこりと頭を下げた。
 その声でハッと我に返った直哉は、わずか十数秒とはいえ完全に意識を飛ばしていた自分にバツの悪いものを感じたせいか、
「ああ、おめでとう」
 と一言ぶっきらぼうに返してしまい、直後、自分の声の不機嫌さにたじろいだ。
 けれど、一度発してしまった台詞を無かったものにするなどできるはずもない。どうにか挽回しなければと焦るけれど、焦れば焦るほど思考は空回りするばかりで気の利いた言葉の一つも浮かんでこない。
 結果的にむっつりと黙り込んでしまった直哉に、困ったように小首を傾げた咲月が恐る恐るといった感じで話しかけてきた。
「あの、遅くなっちゃってごめんね。かなり待たせちゃった?」
 どうやら咲月は直哉の不機嫌さの理由を、自分が遅れたせいだと推測したらしい。心底すまなそうな顔をして直哉を見上げている。
「いや……」
 けれど、それは誤解だ。
 約束の十五分も前に家を出て来たのは直哉の勝手だし、しかも、あれからまだ十分も経っていないと思われる。つまり、今はまだ約束の時間より前だということだ。
「いや、そんなことないよ。俺も今来たところだし」
 咲月を困惑させているのが自分だとはっきりと自覚した直哉は、否定の言葉と同時にぎこちなく頭を振った。
 すると、身体を動かしたことが良かったらしく、石像のように凝り固まっていた全身から力が抜けて、白みがかっていた思考も徐々にクリアーになっていくようだった。
 直哉はやっと自由になったはずの顔の筋肉を必死で動かして、口元に笑みらしきものを浮かべた。
「ごめん、怒ってたわけじゃなくて、その、……咲月の格好にちょっと驚いただけだよ」
 言いながら咲月の足元から頭の天辺までゆっくりと視線を動かす。すると強張っていた咲月の表情がとけて、今度は頬がみるみる赤く染まっていった。
「あっ、これ? これね、麻里ちゃんのお下がりなんだ。直哉と初詣に行くって言ったら、お母さんが着付けてくれたの」
 両頬を手のひらで覆った咲月が、早口でまくし立てる。どうやら直哉の視線に居心地の悪さを感じているようだ。
 自分と同じように動揺しているらしい咲月の様子に、直哉はざわめいていた心が落ち着いていくのを感じていた。ほんの少しの余裕をもって咲月を観察できるくらいまで気持ちが挽回している。
 直哉は改めて目の前にたたずむ咲月の全身をゆっくりと堪能した。
 今日の咲月は艶やかな真紅の振袖にその身を包んでいた。柄はオーソドックスな花柄で、色の割にきつい印象は受けない。むしろ咲き零れる花々の合間に見え隠れする紅色が咲月の肌の白さを際立たせており、楚々とした感じさえする。どちらかというと華やかな外見をしている咲月の従姉の麻里が着たらまた違った印象なのかもしれないが、これはこれで咲月にも不思議と似合っている。
 首元を白いふわふわの襟巻で覆い、いつもは下ろしたままにしているセミロングの髪もきれいに結い上げられている。見慣れないヘアスタイルをじっくりと観察していた直哉は、襟巻の合間にちらりとのぞくうなじの艶めかしさに気付き、鼓動がドクンと高鳴った。
「へぇ、麻里ちゃんの? そっか、俺らの二つ上だから去年が成人式だったもんな」
 胸にこみ上げてくる熱で声が上擦りそうになるのを抑え込みながら、直哉はできるだけ平静さを装ってそう言った。
 二十一歳の麻里は咲月の母方の従姉で、咲月ととても仲が良く直哉にとっても姉のような存在だった。麻里が高校生になるまでは学校が夏休みや冬休みになると一週間程度の日程で井川家に遊びに来ていたので、咲月と同じく直哉のことも弟のように可愛がってくれたものだ。
「そうなの! 良かったら来年の成人式にって一式貸してくれたんだけど、お母さんは新調する気満々でね。せっかくだから、今日着て行ったらってことになったんだけど……、えっと、変、かな?」
 まじまじと注がれる直哉の視線に耐えられなくなったのか、だんだんと勢いを弱めた咲月がうかがうような上目使いで直哉を見やる。振り袖姿と相まったその仕草に、直哉は全身の血液がカッと沸騰するのを感じ、うろたえた。
「いや、変じゃないよ。……っていうか、馬子にも」
「衣装って言うんでしょう! そんなの分かってますよ〜だ!」
 照れ隠しで付け足そうとした直哉の言葉に、咲月のすねた声が重なる。
 けれど、頬を上気させたままの咲月に睨まれても怖くもなんともない。むしろ……。
 直哉は観念したようにふっと微笑んだ。
「似合ってる。ほんとに可愛いよ」
 甘いささやきに咲月の口がぽかんと半開きになった。
 そのまま硬直している咲月に向かって、直哉はますます笑みを深くすると、ゆっくりと腰を折り、咲月の耳元に唇を寄せた。
「……七五三みたいで」
 目を見開いた咲月が、一拍遅れて眉を吊り上げる。
「ちょっ、直哉っ!!」
 咲月の抗議の声は、高らかに響く直哉の笑い声に呆気なくかき消された。
 直哉は口をパクパクさせている咲月を斜めに見下ろし、笑顔を崩さずに口を開いた。
「さっ、そろそろ行こうぜ。初詣、行くんだろ?」
「もうっ、直哉の意地悪!」
 咲月の頬が赤いのは、怒っているせいなのだろうか。それにしては、台詞に反して声に甘さが滲み出ている。
 軽く腕を振り上げた咲月にペロッと舌を出し、直哉は軽やかな足取りで歩き始めた。これから電車に乗って二つ先の神社の最寄り駅まで行くのだ。とりあえず駅に向かわなければならない。
 そんな直哉の背中を「待ってよ〜!」と咲月の声が追いかけてくる。
 くすぐったさを覚えながら直哉は足を止め、身体ごと振り返った。そして、焦った様子で直哉を追いかけてくる咲月の赤い振袖と上気した頬を、目を細めて眺める。きらめいている元旦の風景に溶け込んだその姿は、直哉の胸を甘やかな暖かさでいっぱいにした。
 本当に、今日という日は新しい年の始まりに相応しく、目に映るものすべてが眩しく愛おしい。
「直哉ってばもっとゆっくり歩いてよ。こっちはすっごく歩きづらいんだからね?」
「悪い、咲月が着物なの忘れてた」
 やっとのことで直哉の隣に並んだ咲月に睨まれて、直哉は片手で鼻の頭をこすった。
 まさか自分の台詞が気恥ずかしくていてもたってもいられなくなったなどと本当のことを打ち明けるわけにもいかないので、ここは笑って誤魔化すしかないだろう。
 へらへらと愛想笑いを浮かべ続ける直哉に、咲月は小さく溜め息を吐き出したけれど、ふと何かに気付いたように瞳を見開いた。
「あれ、そのマフラー使ってくれてるんだね」
「あ、これ?」
 その言葉で存在を思い出し、直哉は自分の首に巻き付けているマフラーにそっと触れた。
「うん、スッゲー温かいよ。ありがとな、咲月」
 満面の笑みを浮かべて見下ろすと、咲月はうろたえたように視線を泳がせた。
「そ、そう? それなら良かった。じゃあ、今日みたいに曇って寒い日にはぴったりだね」
「へ?」
 直哉が思わず素っ頓狂な声を漏らすと、咲月が「あっ」と口を押さえて頬を赤らめた。
「あっ、えっと、天気予報だと昼前から晴れるんだっけ。そしたら暑くて邪魔になっちゃうかな?」
 何故か焦った様子でそう付け足した咲月を呆然と見つめていた直哉は、内心の混乱を抑え、かろうじて頭を振った。
「いや、そうじゃなくて……。え? 曇り? あれ?」
 そして、改めて空を見上げる。
 そこにはどんよりと鉛色の雲が広がっていた。
 次にぎくしゃくと周りを見回してみたけれど、もちろんひと筋の陽の光さえ見当たらない。
 今まで感じていたさわやかな朝とは程遠い風景だ。
(……って、あれ?)
 次の瞬間、直哉は全身の血が一気に逆流するのを感じた。
 つまり、今朝目が覚めてから直哉が感じていたきらびやかな世界はすべて幻影だったというわけだ。そしてその幻影を作り出していたのは直哉の脳で、それだけ直哉自身が浮かれていたということなのだろう。
 ――やっと、咲月に逢える。
 ただそれだけのことが、世界を薔薇色に染めていたのだ。
 そして、すべてを理解してもなお世界は光に満ちあふれ、何もかもが輝いている。まるでダイヤモンドでも散りばめられているかのように。
 咲月が隣にいるだけで――。
 ふと視線を感じて眼をやると、訝しげな表情を浮かべた咲月が直哉をじっと見つめていた。
 思わず息を詰めた直哉は挙動不審だった自分の態度に思い至り、ますます頬が熱くなっていくのを感じる。
(ヤバい)
 思わず片手で口を覆い、直哉は咲月から視線を逸らした。
 自分の浮かれっぷりを自覚すればするほど羞恥心が込み上げ、直哉は走り出したい程の衝動に苛まれていた。
「直哉?」
「……行こうぜ」
 やっとのことでそれだけを呟き、直哉はまたしても大股でずんずんと歩き始めた。
 けれど直後に足を止め、肩越しに咲月がついて来ているのを確認すると、今度はゆっくりとした歩調で駅へ向かって歩を進めたのだった。




Back | Top