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 咲月と直哉の腐れ縁は、高校を卒業して別々の大学に進学した今も続いている。
 咲月の通う大学は、自宅から電車を乗り継いで一時間ほどかかる場所に位置していた。そして直哉は更に遠くの大学へ通うことになったのだが、一人暮らしを始めるにあたって彼が選んだのはなぜか咲月の大学の最寄り駅にあるアパートだった。直哉の大学はこの駅から更に電車で三十分ほど行った先にあるので、本来なら自分の大学の近くで部屋を借りた方が便利なはずなのだが、直哉はごく当たり前のように今の場所を選んだ。
 それで必然的に、咲月は大学からの帰り道に直哉のアパートへ寄って、部屋の掃除や洗濯から料理まで家事全般をやらされる羽目になった。
 実は"羽目になった"というのは表向きなことで、内心ではこの状況を喜んでいたりするのだけれど。
 咲月は自分の恋心を自覚していた。
 それは、自転車にぶつかりそうになったあの日にいきなり芽生えたものではなく、咲月自身が無自覚だっただけで実はずっと以前から心の奥深い場所で眠っていた想いだった。自転車と接触しそうになった恐怖と直哉を異性として認識した衝撃のせいで、咲月の心に何重にも掛けられていた鍵が吹き飛んだのだろう。自覚した途端に自身が戸惑うほどの勢いで想いは深まっていった。
 けれども"幼馴染み"という二人の間の強い絆が、この恋を打ち明けることを躊躇わせていた。
 直哉は咲月をとても大切に思ってくれる。けれどもそれは自分が幼馴染みだからだということを、咲月は嫌と言うほど理解していた。
 明るく気さくな性格の直哉は昔から男女問わず人気があったけれど、高校に入学して一段と背が伸びてからは両手の指では収まりきれないほどの数の女の子と付き合っていた。『来る者は拒まず』というのが直哉の信条だったらしく、フリーの時に告白されればどんな相手でも必ず返事はオーケーだったので、三年間で付き合った彼女の総数は本人はもちろん咲月でさえ把握しきれないほどなのだ。
 自分の恋心を自覚してからの咲月は、直哉に新しい恋人ができる度に心に鋭い針が刺さったような苦痛を感じていたけれど、その痛みに耐えてまでも"幼馴染み"というポジションを保ち続けていた。
 本当なら、離れてしまうべきだったのかもしれない。直哉への想いを捨てて距離を置けば、ただの幼馴染でしかない二人はある程度疎遠になっていただろう。それでも、咲月はそうしなかった。直哉への恋心を捨てることも、大事な幼馴染という関係を捨てることも、そのどちらも咲月にはどうしてもできなかったのだ。
 しかし、そんなふうに咲月に苦痛を与えておきながら、直哉は恋人と長続きした例がない。大抵は二、三週間、早い時は三日、長くても一ヶ月ちょっとで直哉の恋はいつも破局した。
 直哉の前を何人もの女の子が通り過ぎたけれど、幼馴染みの自分だけはずっと彼の隣にいる。
 その事実に咲月はちょっぴり優越感のようなものを感じていた。
 と同時に、この関係を壊してしまうかもしれない自分の恋心にささやかな恐れを抱いてもいた。
 恋心を表に出さなければずっと一緒にいられるかもしれない……、それは抗い難い誘惑だったから。
 だから、絶えず血を流し続ける自分の心に目を背けて、咲月は直哉の隣で笑っていることを選んだのだ。



 そんな直哉だったが、大学に入ってからはずっと一人身が続いており、新たに恋人を作る気配も感じられなかった。
 過去に付き合った彼女たちはすべて相手から告白してきたのだが、それを直哉は断る理由もないのでなんとなく了承してしまっていただけらしいので、もしも誰からも告白されていなかったら高校の三年間に彼女は一人もできなかったのではないかと咲月は睨んでいる。
 それに、直哉は「本気で好きになった子はいないの?」という咲月の問いに、いつも決まって「そんなのいないよ」とあっさり返してくるばかりだったので、咲月は直哉の彼女に対して罪悪感を抱きながらもこっそり胸を撫で下ろさずにはいられなかった。直哉にとって女の子と付き合うという行為は、友達になるのと変わらないくらい気軽なもののように思えたので、咲月も新たな彼女が出現する度に胸を痛めてはいたものの、心のどこかではわずかにホッとしている部分もあったのだ。もちろん、いつか直哉の心を完全に奪ってしまう相手が現れるかもしれないという恐怖は常に付きまとっていたけれど。
 理系の学部に進学した直哉は授業とバイトの掛け持ちに忙しく、合コンなども敬遠しているらしいので、入学以来女の子との縁がすっかり遠ざかってしまっているようだった。そもそも、咲月には直哉自身が取り立てて彼女が欲しいとは思っていないように見えた。
 それで、咲月は弾む心を抑えながら週に数回、大学の帰りに直哉のアパートへ寄っていた。手には直哉から当たり前のように渡された合鍵を握りしめて。
 咲月は有頂天になっていた。
 夏が過ぎ、秋が終わって冬が来ても、相変わらず合鍵は咲月の手の中にあったから。
 だから、ほんの少しだけ、欲張ってみたくなったのかもしれない。
 十二月に入ったばかりのある日、いつものように直哉の部屋にやって来た咲月はキッチンの片付け物を手早く終えてから、ベッドに寄りかかってテレビに夢中になっている直哉に向かって、冗談めかしてこう言ってみたのだ。
「ねえ、直哉。今年のクリスマスは一緒に過ごす恋人の当てはあるの?」
「ん〜、今のトコない、かな……」
 半分以上テレビに意識を向けながらそう答える直哉に、咲月の鼓動は高鳴った。
 生まれて初めて、直哉と二人っきりでクリスマスを過ごせるかもしれない。例えそれが、"ただの幼馴染み"という関係だったとしても。
 咲月はコクリと唾を呑み込んだ。その音が大きく響いた気がして思わず身を竦ませる。
 さり気なく、慎重にことを運ばなければならない。決して本心を悟られてはいけないから。
「それなら、もしもお互い恋人ができなかったら、イブの夜は駅前のクリスマスツリーの前で待ち合わせることにしない? 一緒に過ごす相手が幼馴染みじゃ色気もないけど、一人で過ごすよりましでしょう?」
 ドキドキしながら直哉の答えを待つ。
 咲月の言葉に直哉がゆっくりと振り向いた。
「なんだよ咲月、言ってくれるじゃん。そう言う自分こそ、恋人の当てがないんだろう?」
 揶揄するように笑う直哉に、不意を衝かれて咲月は口ごもる。
「そっ、そんなこと、ないけど……」
「おっ、そうなのか? さては咲月ちゃん意中の彼がいるんだな? 何だよ水臭せえな、言ってくれればいいのにさ。な、どんな奴?」
 わざとらしく咲月に"ちゃん"まで付けて、直哉はからかうようにニヤリと笑った。
 けれど、その内容のあまりの残酷さに、言われた咲月は殴られたような衝撃に襲われていた。ショックで頭の中が真っ白になった咲月は、期待に満ちた眼差しをこちらに向けている直哉を呆然と見やることしかできなかった。
 直哉にとって、咲月は本当にただの幼馴染みに過ぎないのだ。とうの昔に解っていたことだけれど、改めて目の前に突きつけられると、事実とはいえあまりにも苦しい。
 咲月は胸の痛みを追いやるように、小さく息を吐き出した。
 と、同時に、いつまでも「待て」をしている子犬のような瞳で咲月を見つめている直哉に、殺意にも似た腹立ちが湧いてくる。
 今すぐ直哉を張り倒してやりたい衝動に駆られながら、咲月は何とか震える口元に笑みらしきものを浮かべた。
「そんなの直哉に関係ないでしょ。あたしはただ……」
 ただ直哉とクリスマスを過ごしたいだけ、そう言えない自分の立場が恨めしい。
 咲月は意を決してこぶしをぎゅっと握りしめた。
「あたしはただ、直哉が独りぼっちでクリスマスを過ごすんじゃ、可哀想だなーって思っただけだもん。あたしだってその気になれば他の人と過ごすことだってできるけど、幼馴染みのよしみで恋人のいない直哉くんの相手をしてあげようかなって思っただけ!」
 苛立つ心のまま一気にまくし立てると、直哉は一瞬傷ついたような表情をした。けれども次の瞬間にはいつもより更に皮肉めいた笑みを、端正な顔に浮かべる。
「それはどーも。お心遣い感謝します」
 直哉はぶっきらぼうにそれだけ言って、ぷいっとテレビの方を向いてしまった。
 そしてその日はそれっきり、いくら咲月が話しかけても答えてくれることはなかった。

 直哉に新しい彼女ができたと知らされたのは、その一週間後のことだった。



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