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 あの時の彼女の勝ち誇ったような表情が目の前に浮かんで、咲月は握り締めたベルを力任せに振り回した。
 ―― 何なのよ、あの女! 感じ悪いったら。……猫目の、……猫女めっ!!
 カランカランカラン……と澄んだ音色がめっきり人通りの少なくなったアーケードにこだまする。
 あれから大学が冬休みに入ったこともあり、咲月は直哉の部屋を訪れていない。
 ズボラな性格の直哉のことだから、洗濯はともかく掃除の方はまるっきりしていないだろう。埃の溜まった部屋の惨状が目に浮かぶ。直哉の大学も咲月よりちょっと後に休みに入っているはずだが、ちゃんと生活できているのだろうかとわずかながら心配になってしまう。きっとバイトにばかり明け暮れて、まともな食事を取っていないだろう。咲月が保存食として冷凍しておいた料理もとっくの昔に底をついているはずだ。
 それとも、咲月が来ないのを良いことにあの彼女を部屋に上げて料理や掃除をやってもらっているのだろうか。
 クリスマスイブの今夜だって、きっとあの女と……と考えかけて、咲月はブンブンと頭を振った。
 朝から思い出さないようにしてきたのにうっかり思考がそっちへ行ってしまったのは、売れ残った五千円のケーキのせいかもしれない。
 売れないケーキのせいで、咲月の心まで弱ってしまったのだ。きっとそうに違いない。
 クリスマスなのに買い手のないケーキも、クリスマスなのに独りぼっちの咲月も同じだから。
「あんたが売れないと、あたしお家へ帰れないのよ……?」
 思わず"マッチ売りの少女"気分を思い出してそう呟くと、思いがけない近さで「クスッ」と笑う声がした。
「それは大変だね」
 弾かれたように顔を上げると、目の前にはいつからそこにいたのだろう、見覚えのある青年がたたずんでいた。優しげな光を浮かべた瞳が咲月の視線を捉える。
「あ、えっと……?」
「こんばんは」
 戸惑う咲月に、眼鏡をかけたその青年は穏やかな笑顔を向けた。
「えっと、……山本くん、だったっけ?」
「だったっけ、は酷いな。井川咲月さん」
 柔和なその笑みに、一瞬にして咲月の緊張がほぐれていく。
 山本とは以前、友人に無理矢理連れて行かれた他大学との合コンで知り合った。やけにハイテンションなメンバーの中で唯一静謐(せいひつ)な空気をまとっていたのが山本だった。そして、場の雰囲気にうんざりしていた咲月に穏やかに話しかけてくれたのもまた彼だったのだ。
 警戒態勢を解いた咲月は、山本に向かってにこやかに話しかけた。
「あ、ごめん。久しぶりだね、山本くん。えっと、この辺に住んでるの?」
「ああ、違うんだ。ここ、うちの大学の最寄り駅だからちょうど通りかかったところだよ。そういう井川さんこそ、この辺?」
 美夜子の店がある商店街は普段咲月が来ることのない駅の前に連なっていた。今通っている女子大とは、ちょうど自宅を挟んだ反対側になるだろう。バイトを頼まれなければ、一生降り立つこともなかったかもしれない街だ。
 それなのに、ここが山本の馴染みの場所だったなんて、何という偶然だろう。
「ううん。あたしはバイトを頼まれちゃって。ここの店のオーナー、うちの母の知り合いだから……」
「ああ、それでイブなのに勤労少女をやってたんだ」
「き、勤労少女って……」
 穏やかに笑う山本につられて、咲月も自然に笑っていた。
 山本のこういう大人っぽい雰囲気はいいな、と思う。癒される、というのはこんな感じだろうか。
 ―― 妙に子供っぽい誰かさんとは大違い……。
 またもや浮かんできた直哉の顔を振り払うように、咲月は意識してはしゃいだ声を上げる。
「そういう自分こそ、冬休みなのに大学へ行ってる勤勉少年くんじゃない?」
「それもそうだね」
 照れたように頭を掻く山本の姿が可笑しくて、咲月はまた心の底から笑った。
 こんなふうに笑うのは一体何日振りだろう、と思う。
 直哉の前から走り去った日から……、違う、もっと前、直哉に新しい彼女ができたと聞いたあの日から、本気で笑ったことなどなかったのかもしれない。笑えば笑うほど、心が軽くなっていくのを感じる。
 それで初めて、咲月は自分の心が直哉の件でがんじがらめになっていたことに気が付いた。
 ―― 山本君って、ほっとする……。
 会うのは二回目だけれど、不思議なことに山本にはずっと昔からの友人のような気安さがあった。
 朝の海のような穏やかさ、満天の星空のような安らかさ。今の咲月に必要なのはそういう存在なのかもしれない。
 その考えは、咲月にちょっぴり後ろめたさを与えたけれど。



「井川さん」
 それまでの和やかな空気を破り、不意に山本が改まった声で咲月の名前を呼んだ。その声で我に返った咲月は、自分を見つめる山本の目の真剣さに息を呑んだ。
「……はい?」
 おずおずと返事をした咲月に、山本は相変わらず強い眼差しを向けたまま、意を決したように口を開いた。
「実はさ、僕、今日ここを通るの、これで三回目なんだ」
「え?」
 山本が何を言いたいのか掴みかねて、咲月は訝しげに小首を傾げた。
「一回目は昼過ぎ、大学へ向かう時。すごく元気なベルの音が聞こえて、そっちを見たらキミがいたんだ。二回目は夕方、大学からの帰り道。やっぱりキミはベルを振っていた」
 どう答えたら良いのか分からなくて、咲月は曖昧に頷き返した。
 ただ、山本が発するただならぬ雰囲気だけは身を持ってひしひしと感じ取っていた。心臓がわずかにトクンと脈打つ。
「この間の合コンの時さ、井川さん、あんまり乗り気じゃなかっただろう? だからてっきり彼氏がいるんだろうと思ったんだ。僕には到底チャンスはないだろうと。……なのにクリスマスイブ当日に、キミはケーキを売っている」
「彼氏なんて……」
 なぜか胸の鼓動がどんどん速くなる。頬が熱く火照ってくるのも自覚していた。
「だけど、ひょっとしたら、恋人とは夜から会う約束なのかもしれないと思った。だから、三回目の今は、夜になってもキミがまだいるのかを確かめに来たんだ」
 熱を帯びているような山本の視線に、全身を絡め取られてしまったようで。
 早鐘のように打つ心臓が、とても自分のものとは思えない。
 何か言わなければ……そう思ったけれど、喉がせり上がったように苦しくて、言葉を発することができそうもない。
「夜になってもまだキミがいたら……」
 ふと言い淀んだ山本に、咲月の心が激しく警鐘を鳴らす。
 言わないで。
 弱った心は簡単に押し流されてしまうから。
 ―― 今頃、直哉は、あの猫女と……。
 さも自分のモノだと言いたげに直哉に腕を絡めた彼女の顔がよみがえり、咲月の心が揺れ動く。
 そんな自分が許せなくて、咲月は山本にぎこちない笑顔を向けた。
「……ケーキを、買って行こうと、思った?」
 張り詰めたような雰囲気を壊したくてわざと冗談めかしてそう言ったけれど、咲月の声は明らかに震えていた。
 山本はハッとしたように咲月を見つめ返した。
 暫し沈黙し、ふっと笑う。
「そうだね。他にそのケーキを買う予定の人がいないのなら……」
 言いながら、コートの内ポケットへと伸ばされた手。再度現れた時、彼の手は財布を握っていた。
「そのケーキ、僕が買うよ。欲しいんだ、どうしても」
 決意を秘めた山本の口調に、咲月の動揺が大きくなる。
 冗談で流そうとした咲月の試みは失敗したのだ。
 山本が欲しているのはケーキではない。そのことは彼の眼差しから痛いほど感じられた。
 ―― いっそこの人に縋ってしまえたら……。
 その考えは、暗闇に灯ったろうそくの炎のように、咲月の心にほのかな光と温かさを与える。同時に、急激に山本の方へと流れ出しそうになる心に、咲月自信が戸惑っていた。
 流されてしまえばいい、そんな投げやりな気持ちさえ湧いてくる。
 記憶の中の直哉が、恋人と腕を組んで遠ざかっていく。
「……でっ、でもこのケーキ、五千円もするのよ? すごく大きいし…十人分くらいはあるんだから……」
 それでも、山本の意図には気付かない振りをして咲月は最後の抵抗を試みた。
 咲月自身、山本にあきらめて欲しいのか、あきらめて欲しくないのか、自分の心が解らない。求められている喜びと、予想外の事態への困惑で頭の中がぐちゃぐちゃだ。もう、自分が何をしたら良いのかも分からない。
 咲月は泣き出したいような気持ちで山本を見上げた。
 けれども山本は、咲月を逃がしてはくれなかった。
「いいんだ。そのケーキ一つでキミが僕のモノになるのなら」
「……山本くん」
 山本の決定的な一言と真剣な眼差しに、咲月は抵抗の言葉を失った。
 逃げることも、誤魔化すことも許さない。そう語る彼の瞳には、咲月への想いが溢れている。
 もう拒否できそうにもない、と思う。
「そのケーキ、僕に売ってくれないか?」



 ただ一度、頷けばいい。
 それで直哉の呪縛から、解放されるなら。



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