5


 咲月は震える指先を握りしめた。
 何も悩むことはないと思う。山本は咲月の心を温かく包み込んでくれるだろう。
 今も昔も直哉が咲月を女性として見てくれたことはないし、これから先だって望みはない。
 "幼馴染み"
 それは特別な関係だったけれど、たったそれだけの関係でもあったのだ。
 平行線の二人。未来永劫、咲月と直哉の関係が交わることはない。
 それなのに、自分は一体何を守ろうとしていたのか……。
 自嘲気味にそう問いかけると、咲月は意を決して山本の言葉に頷こうとした。
 その瞬間、

「悪りぃけど、そのケーキ、売約済みなんだ」

 突然、無遠慮な声が咲月と山本の間に割って入った。
 その声に、咲月の心が震える。
「なっ、直哉……?」
 いつの間に現れたのか、山本のすぐ後ろに直哉が立っていた。
 直哉は驚きのあまり目を見開いている咲月を一瞥すると、自分のすぐ前に立っている山本の肩をトントンと叩いた。
「悪いね、兄さん。今日のケーキは完売です。またのご来店をお待ちしていますよ」
「ちょっ、ちょっと、なに勝手なこと言ってんのよっ!」
 慌てる咲月を直哉は真っ直ぐに見つめてきた。
「咲月」
 見たこともないくらい真剣な瞳。咲月の名を呼ぶちょっと低めの声。
 たったそれだけで、咲月の心はどうしようもなく震えてしまう。
「咲月、俺、彼女とは別れたから」
 思いがけない直哉の言葉に、咲月の動揺が大きくなる。
 ―― 別れた? 突然何を言い出すの? 今更そんなこと言ったって遅いんだから。あたしはもう……。
 咲月は震える視線で山本の姿を追った。記憶の中の穏やかな彼の笑顔を必死で引き戻す。
 ―― もう一度、朝の海のような彼の空気に包まれることができれば……。
 そうすれば、直哉に惹き寄せられそうになる咲月の心を止(とど)めることだってできるだろう。
 縋るような気持ちで見つめたのに、山本は何かを察したようにかすかな笑みを浮かべただけだった。
「井川さん、ケーキは売ってもらえないようだね」
「……山本くん」
 否定、しなければ。
 首を振って、すぐそこにある山本の手を取ればいい。たったそれだけで、咲月の苦しみは終わるから。
「山本くん、ごめんなさい……」
 だけど、そうできないことは、咲月が一番良く分かっていた。
 直哉から解き放たれるための翼を、自分から捨ててしまうとしても。
「いいんだ。良いクリスマスを」
 山本はそう言って笑ったけれど、その瞳に一瞬淋しげな影がよぎったのを咲月は見逃さなかった。
 ズキン、と小さく胸が痛む。
 咲月の重荷にならないように自ら身を引いてくれた山本の優しさが胸に迫って、咲月は開きかけた唇をきつく噛みしめた。
 そんな咲月に頷いてみせると、山本は直哉の方に向き直った。
「ケーキを無駄にするようなことがあれば、いつでも僕がもらい受けに行くよ?」
 そう小声でささやいて、山本は咲月と直哉に背を向けた。そのまま一度も振り返らず、駅へ向かって足早に去って行く。
 遠ざかる山本の後ろ姿を、咲月は声もなく見送ることしかできなかった。



 残された咲月と直哉の間には沈黙が降り積もる。
 ほんの短い間に起こった怒涛のような出来事に、咲月は未だ呆然としていた。一体何がどうなったのか、事態が上手く呑み込めない。
 だから、先に沈黙を破ったのは直哉の方だった。
「うわっ、怖えぇ……。俺、あいつに睨みつけられたぜ?」
 茶化すようにそう言って無邪気に笑う直哉の姿に、咲月はハッと我を取り戻し、次の瞬間脱力した。
「なに言ってんのよ! 突然現れて、あんたが失礼なことを言ったからでしょう! 大体、なんで直哉がここにいるのよ!?」
「失礼なことって……、ああ、ケーキは売り切れだって言ったことかよ?」
 うっと言葉に詰まった咲月の顔を、直哉は正面から覗き込んだ。
「だってさ、そうでも言わなきゃあいつ、いつまでもケーキの前からどいてくれそうになかったじゃん。俺は一刻も早く咲月と話したかったんだよ」
「だからって、追い払うようなまねをすることないじゃない」
 抗議する咲月をちらりと見やり、直哉が大げさな溜め息を吐いてみせた。
「あのさ、俺はなぁ、午後からずっと咲月を探してたんだよ。携帯は繋がらないし、お前ん家に電話しても出ないしさ。ホント参ったよ。んで、八方ふさがりになって困ってたら、夕方過ぎに咲月の家から電話がかかってきたんだ。帰宅した紗奈恵さんが着信履歴を見てびっくりしたみたいで、慌ててかけてきてくれてさ。それで、咲月がケーキ屋でバイトしてるって教えてくれたんだよ。ったく、携帯の電源くらい入れとけよな? おかげでどんだけ無駄足踏んだと思ってるんだよ?」
 拗ねたようにそう言ったけれど、直哉の目は怒ってはいないようだった。
 けれども咲月の方はくすぶり続ける苛立ちが収まらない。
「そんなの知らない。直哉はいっつも自分勝手なのよ。山本くんまで勝手に追い帰しちゃうなんて……」
 本当は、山本に対してはかすかな罪悪感を覚えているけれど、彼が立ち去ってしまったことに関しては心のどこかでホッとしている自分もいた。その事実を棚に上げて、直哉に恨み言をぶつけてしまう。
「だったら」
 これにはさすがの直哉もカチンと来たようだ。
「だったら今からあいつを追いかければ? 今ならまだ駅の改札辺りで捉まるんじゃね? ま、行かせないけどね」
 さりげなく付け足された言葉に、咲月の心臓がドクンと反応した。
 いつもとどこかが違う直哉の様子に、怒りよりも戸惑いの方が大きくなっていく。
 焦った咲月は、言葉を捜して結局見当違いな愚痴をこぼしてしまった。
「……このケーキ、朝からずっと売れなくて、やっと買ってもらえるところだったのに」
 本心を誤魔化すように、更に早口でまくし立てる。
「直哉が邪魔をしなければ、売れてたのに……。どうしてくれるのよ、このケーキが売れないとあたしのバイト終わらないのよ。直哉のせいなんだからっ!」
 嘘だった。ケーキが売れなくても時間が来ればバイトは終わる。それでも胸の中の戸惑いを隠すように、咲月は直哉を罵った。
 そんな咲月の様子に、直哉は呆れたような笑みを浮かべる。
「あれ、聞いてなかったのか? そのケーキは売約済みだって言っただろ?」
「だって……、あんなの口から出まかせだったんじゃないの?」
「そんな訳ないだろ。安心しろよ、そのケーキは俺が買い取るから。それより……」
 それまでの明るい調子を一転させて、直哉は口をつぐんだ。
 そして、酷く真面目な顔をして咲月の瞳を覗き込む。
「前に言ってた、クリスマスを一緒に過ごす恋人の当てってあいつのこと?」
 一瞬何を言われたのか分からなくて、咲月は黙って直哉を見つめ返した。そして、以前、売り言葉に買い言葉のようにそんなことを言ったかもしれないと思い当たる。
 睨みつけるように注がれる直哉の真剣な視線に耐えられなくて、咲月は思わずうつむいた。そして、
「そんなの直哉には関係ないもん。……大体、自分の方こそ彼女と別れたって、どういうことよ?」
 独り言のようにそうつぶやく。
 と、下を向いたままの咲月の耳に、直哉のかすかな溜め息が届いた。
「……お前のせいだよ。俺が女と別れるのは、昔からいつだって咲月のせいなんだ」
「え?」
 ゆっくりと顔を上げた咲月の視界に、思いがけず優しい表情をした直哉の姿が映った。ドクン、とひときわ大きく鼓動が跳ねる。今、目の前にいるのは、本当に、直哉?
「この間さ、駅で彼女に会っただろ? あいつ、お前の前では知らん顔してたくせに、後からあの子は誰ってうるさくてよ……。ただの幼馴染みだって説明したら、そんな訳ない、そういう空気じゃなかったって、怒鳴られた。その場は何とかなだめたんだけど、今日……」

「咲月ちゃん?」

 呆けたように直哉の言葉に聞き入っていた咲月は、不意に名前を呼ばれ、飛び上がって驚いた。
「みっ、美夜子さん……」
 美夜子は店の前にたたずむ直哉に目をやると、ちょっとすまなそうな顔をしてから咲月の耳元にそっと顔を寄せた。
「そろそろ閉店時間なんだけど、ここ片付けるの手伝ってくれるかしら?」
「あ、ハイ。もちろんです」
 頷きながら、咲月は一気に現実が戻ってくるのを感じていた。まるで白昼夢でも見ていた気分だ。
 軽く頭を振る咲月の視界に、美夜子が直哉にも柔らかな笑みを向ける姿が映る。
「咲月ちゃんのお友達? ごめんなさいね、ここを片付けたら彼女の仕事も終わるから、良かったらお店の中で待っててくれるかしら?」
「あ、いや、俺は……」
「あら、遠慮しなくても良いのよ?」
 困ったように曖昧な笑みを浮かべる直哉と半ば呆然とした感じの咲月の姿を見比べて、美夜子は不思議そうに小首を傾げた。その視線がゆっくりとテーブルの上に移動した途端、
「まあ、凄いじゃない咲月ちゃん! ほとんど完売なんて嬉しいわ」
 美夜子はパチンと両手を合わせて、場違いとも思えるほど明るい歓声を上げた。
 突然のことに驚いた咲月と直哉が思わず顔を見合わせた横で、美夜子がふうっと溜め息を吐く。
「……だけど、やっぱりこのケーキは売れ残っちゃったのね」
 ぽつりとつぶやかれた一言で、三人の視線がテーブルの上に集中した。
 そこにあるのは一つだけポツンと取り残されたケーキの箱。朝からずっと主のようにしぶとく居座っていた特大の箱だ。
「あ、そのケーキなら、今俺が買ったところです。えっと、お幾らですか?」
「五千円」
 焦った仕草でコートのポケットをまさぐっている直哉を横目に、咲月が冷たく言い放つ。その言葉で直哉はピタリと動作を止めた。次の瞬間、サアッと青褪めるのが見て取れた。
「げっ、そんなにするの?」
「そうよ。男に二言はないでしょう? せっかく売れそうだったところを直哉がぶち壊したんだから、ちゃんと責任取って買い取ってよね」
「うっ……」
 うめき声を残して固まってしまった直哉に、咲月の氷のように冷たい視線が突き刺さる。
「えっと、値引きとかは……」
「無理」
 取り付く島もない咲月の返答に、直哉の顔色がどんどん悪くなっていく。
 まるで漫才のような二人のやり取りを黙って眺めていた美夜子が、堪えきれない様子でクスッと笑みをこぼした。
「そうだ、売れ残りのケーキでも良かったらお二人に差し上げるわ。今日は咲月ちゃんのおかげで助かっちゃったし、ささやかなボーナスってことで」
「えっ、ホントですか!?」
「ダメですよっ、直哉に払わせますから!!」
 対照的な台詞が同時に二人の口から飛び出すと、美夜子はさも可笑しそうにころころと笑った。そんな彼女につられるように、咲月と直哉もお互いの顔を見交わして苦笑を浮かべる。
「本当に構わないから、もって帰ってちょうだいね」
 そう言いながら、美夜子は大きなケーキの箱を手早くビニール袋に入れて、にっこりと直哉に差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
「楽しいクリスマスを」
 直哉はホッとしたような顔をして、神妙にケーキを受け取った。
 それから美夜子に向かってぺこりと頭を下げる。
「それじゃ、俺、そろそろ失礼します」
「あら、お店の中で待っていても構わないのよ?」
「いえ、邪魔になりますから……」
 そのままあっさり帰ってしまいそうな雰囲気の直哉に、咲月の胸がきゅっと締めつけられた。
 一抹の淋しさが込み上げる。
 いつでも直哉は咲月の手をすり抜けて行ってしまう。
 ―― 結局、直哉は何をしに来たんだろう? ケーキを買いに?
 そんなことを考えながらぼんやりと二人のやり取りを見つめていると、美夜子から咲月に視線を移した直哉が何かを訴えるようにわずかに目を細めた。
 ―― えっ?
 直哉の意図が掴めず咲月はその場にぽかんと立ち尽くしていた。すると、焦れたように眉根を寄せた直哉が、テーブル越しに咲月に向かって身を乗り出してきた。耳元に口を寄せ、ほんの短くささやきかける。
 くすぐったさに思わず肩を竦めた咲月は、一拍遅れて言葉の意味を理解してハッと瞳を見開いた。呆然と直哉を見つめる。
 そんな咲月に直哉は口の端を歪め、ややぎこちない笑みを浮かべた。
「わかった?」
 咲月はただコクリと頷いた。頷くだけで、精一杯だったのだ。
 直哉はもう一度美夜子にケーキの礼を述べると、澄ました顔で咲月にひらひらと手を振って、駅へ向かって歩いて行ってしまった。
 信じられない思いで、咲月はその後ろ姿を見送った。



「さて、急いで片付けなくっちゃね」
 茶化すように言う美夜子の言葉に頷いて、咲月は機械的にテーブルの周りを片付け始めた。
 ―― 直哉はなんて言った?
 まるで意味の解らない外国語のように、直哉の台詞を何度も何度も頭の中で反芻してみる。
 胸がどきどきする。まるで雲の上を歩いているように足元がふわふわする。
 気持ちが急いて、指先が震えた。
 ―― 早く、早く、早くしなくっちゃ……
 それからどうやってケーキ売り場を片付けたのかも、どうやって帰り支度を済ませたのかも、咲月は良く覚えていない。
 かろうじて、笑顔でバイト代を渡してくれた美夜子に頭を下げることだけは忘れなかったけれど、次の瞬間には踵(きびす)を返して開き始めた自動ドアの隙間から外に飛び出していた。
 夜の空気はとても冷たかったけれど、のぼせたような状態になっている今の咲月にはちょうど良いくらいだ。
 一度大きく深呼吸して、咲月は何者かに追い立てられるように駅に向かって駆け出した。
 その背中を、不意に美夜子の声が呼び止めた。
「咲月ちゃん!」
 足を止めて振り返った先には、咲月を追って外に出てきたらしい美夜子の姿があった。自動ドアからもれる光を受けて、柔らかな微笑みを浮かべている。
 まるでマリア様みたい、ふとそんな思いが咲月の頭を過ぎった時、
「咲月ちゃん、メリークリスマス!」
 朗らかな声がアーケードにこだました。
 まるで天から降ってくる祝福のようなその響きに、咲月は一瞬ぼうっとたたずんでしまったけれど、ハッと我に返って花が綻ぶように笑顔になった。
 この時になって初めて、咲月は美夜子が売れ残ったケーキを『お二人に』と言ったことに気がついた。あの場では直哉が買い取るという話になっていたのに、どうして二人に譲るという発想になったのだろう。もしかして、咲月の空元気な態度も、直哉との関係も、何もかもお見通しだったということだろうか。
 もっとも直哉との関係の方には多分に誤解が混じっていそうだが、朝から黙って自分を見守ってくれていた美夜子の心遣いが嬉しくて、心がほんのり温かくなる。
 咲月はほんの少しのくすぐったさを覚えながら、美夜子に向かって大きく手を振り返した。そして、今度こそ一目散に駅を目指す。
 エンドレスで鳴り響いているクリスマスソングに、早く早くと急かされるように。

『約束のクリスマスツリーの前で待ってる』

 頭の中では直哉の言葉が甘く甘くリフレインしていた。



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