6


 息を弾ませて改札を通り抜けて来たのに、目的の場所はイブの夜とは思えないほど静まり返っていた。
 時刻は午後九時四十分を過ぎたところ。閉店後の後片付けに時間を取られてしまった上に、美夜子の店からこの駅までは乗り換えの時間を含めるとスムーズにいっても一時間半近く掛かるのだ。焦る気持ちとは裏腹に乗り換えで時間を取られてしまった咲月にとっては、精一杯急いでもこの時間に着くのがやっとだった。
 急に薄暗い場所に出たので目が慣れず、咲月は乱れた呼吸を整えながら一歩一歩ゆっくり広場を進んだ。そうしながら辺りを見回して、目的の人物を探す。
 と、不意に、
「咲月!」
 名前を呼ばれて咲月は足を止めた。
 声が聞こえてきたと思われる方向を振り返ると、薄暗い隅の方から直哉が街灯の下に歩み出て来るところだった。
「直哉……。ごめん、遅くなっちゃった」
 まだわずかに乱れている息を抑えながら、咲月も直哉の方へと歩を進めた。
「残念。もうちょっと早かったらツリーも点灯していたんだけどな」
「うん、急いだんだけど、ホントごめんね……」
 直哉につられて、咲月も明かりを落としてしまったクリスマスツリーを見上げた。
 小さな電球だけがポツポツと明かりを放つ物淋しいツリーの姿が、街灯の下にぼんやりと浮かび上がっている。駅の傍には閑静な住宅街が広がっており、その為、本格的なイルミネーションの点灯は午後九時で終了になっているのだ。
 イブの今夜はさぞかし賑わっていただろうこの広場も、この時間では咲月と直哉の他に人はいないようだった。
「いいよ……。それより、来てくれてありがとな」
 ほの明るい街灯の光に直哉の照れたような横顔が照らし出されて、咲月の胸は高鳴った。
 暗がりのせいだろうか、直哉がいつもと違って見える。
 咲月の名を呼ぶ声も、咲月を見つめる瞳も。
 咲月は何も言えないまま、ただ直哉を見つめ返した。
 そんな咲月にふっと含みのある笑みを浮かべて、
「咲月、これ……」
 不意に直哉が手を差し出してきた。
「え?」
 どうしたら良いのか分からなくてその手と直哉の顔を交互に見つめ返すばかりの咲月に、直哉が焦れたようにもう一度手を突き出してくる。咲月が恐る恐る手を差し出すと、手首をがしっと掴まれて、手の平に小さな箱を押し付けられた。
「……えっ、なに?」
 咲月の手の上に置かれたリボンがかかった小さな箱が、街灯の光を受けてかすかに金の光を返す。訳が分からず小首を傾げる咲月に、直哉がぼそっとささやいた。
「クリスマスプレゼントだよ。咲月にはいつも世話になってるから、そのお礼っていうか……」
 まじまじと見つめる咲月の視線から逃れるように、直哉は視線を上にさ迷わせて髪をかき回した。
 ―― クリスマスプレゼント?
 いつも当たり前のように咲月に家事をやらせてふんぞり返っている直哉だが、実は直哉なりに感謝の気持ちは持っていたということだろうか。それで家事のお礼とクリスマスのプレゼントを兼ねて咲月に何かを贈ろうと考えたのかもしれない。直哉にしては非常に珍しいことだが、咲月を驚かせるのが第一の目的だと考えると、それも頷ける。直哉には悪戯っ子のような部分があることを、咲月は嫌というほど知っているからだ。つまり、直哉がわざわざこんな場所まで咲月を呼び出したのは単にびっくりさせるためで、それ以外の意図はないということだ。
 自分なりにそう解釈して、咲月は強張っていた肩からわずかに力を抜いた。
 何かを期待していた自分がバカらしくなってくる。
「そんなの、気を使わなくていいのに……」
「いいんだよ。それより開けてみろよ」
 頷いた咲月はリボンをほどき、少々苦戦しながら包装紙も開いた。それらを直哉が横からひょいと引き取ってくれたので、最後の砦となった箱の蓋をそっと外す。すると、箱の中には更にビロード貼りのケースが収まっていた。見ただけで宝飾品と判る、青いビロードのケース。
 怪訝に思ったけれど、直哉の視線に促されてケースを取り出し、ゆっくりと蓋を開ける。
 と、ケースの中には綺麗な指輪が入っていた。銀色のリングには、小さな星型の飾り。散りばめられた細かいダイヤが、薄暗がりにかすかな光を放つ。
「直哉、これ……」
 さすがにこれは"お礼"というには高価過ぎる代物に思えて、咲月は言葉を失った。
 直哉は戸惑うばかりの咲月の手からビロードのケースを奪うと、中から無造作に指輪を摘み出した。そして、咲月の右手を取り、不器用な手付きでゆっくりと指に通していく。
 指輪はあつらえたように咲月の薬指にピタリとはまった。
「直哉?」
 その光景を呆然と眺めていた咲月はまだ事態を呑み込めておらず、呆けたように指輪と直哉を見比べることしかできない。
 揺れる咲月の視線を無視して、直哉は満足そうに頷いた。
「思った通りだ、咲月に良く似合うな」
 確かにその指輪はほっそりとした咲月の指に良く映えた。星をモチーフにした指輪は可愛らしい雰囲気だけれど、プラチナの輝きのせいで安っぽくはなく、咲月の手の白さを一段と際立たせている。
「今日これを見つけた時さ、きっと咲月に似合うだろうなって思ったんだ。それで……、その時彼女が一緒だったから指輪のサイズを聞いたんだよ。咲月と指の太さが同じくらいに見えたから……」
 咲月の反応をうかがうように言葉を切って、なぜか直哉は不愉快そうに眉根を寄せた。
「そしたら彼女、自分へのプレゼントだと勘違いしちゃったみたいでさ。そんな子供っぽいデザインよりも、こっちの方がいいとか言い出しちゃって。んで俺が、いいや、咲月には絶対こっちの方が似合うって反論したら喧嘩になっちゃってさ。……最後にはグーで殴られた」
 そう言って、直哉は茶目っ気たっぷりな仕草で痛そうに口元を押さえた。先ほどは気付かなかったが、言われてみると唇の端がわずかに腫れている。
 突然指輪をはめられて混乱状態にある咲月には、直哉の話が遠い国のおとぎ話のように聞こえた。耳から入って脳には伝わっているはずなのに、別世界の話を聞かされているようでまるで現実感がない。
 直哉は呆然とたたずんでいる咲月をちらりと見やって、わざとらしく盛大な溜め息を吐き出した。
「マジで大変だったんだぜ? やっぱりただの幼馴染みなんて嘘じゃないって彼女大騒ぎしちゃってさ。大学生になってまで仲の良い幼馴染みなんて変だとか、幼馴染みに合鍵を渡すなんて変だとか、俺たちの変なところを一つずつ上げ連ねていくんだよ。だけどそれって彼女だけじゃなくて、昔付き合った女たちも、みんなが言ってたことなんだよな……」
 ふと聞き捨てならないことを言われたような気がして、咲月はハッと直哉を振り仰いだ。
 そういえば、ケーキ店に現れた直哉が気になることを言っていたような気がする。
「え? それじゃ、あたしのせいで別れたっていうのは……」
「そう、みんな、最後には自分と咲月とどっちが大事なのかって訊くんだ。だから俺は……」
 咲月を見つめる直哉の瞳が、街灯の明かりを受けてかすかに光る。
 咲月は息をするのも忘れて直哉の言葉に聞き入った。
「俺は、正直に、咲月が大事だって言った」
 一言一言はっきりとそう告げる直哉に、咲月の目頭が熱くなる。
「……幼馴染み、だから?」
 恐る恐る尋ねた言葉に、直哉がゆっくりと頷いた。
 咲月自身もこういう切り返しがズルいことは解っている。昔から直哉は咲月を、ただ"幼馴染みだから"という理由だけでとても大事にしてくれた。咲月が咲月だから、ではなく、幼馴染みだからこそ特別な存在だったのだ。
 もしも咲月が直哉をただの幼馴染みとしか認識していなかったなら、直哉の肯定は最高に嬉しいものだっただろう。
 けれど、今の咲月は直哉に恋をしている。
 幼馴染みとして大切に扱われるのは嬉しいけれど、それだけでは足りない。絶対的に足りない。
 できることなら首を横に振って欲しかった。
 やはり直哉にとって咲月は"大事な"幼馴染みに過ぎないのだ。それ以上でも以下でもなく。
 絶望が、咲月の心を覆っていく。
 直哉はそんな咲月の様子に気付く素振りもなく、淡々と言葉を続けた。
「誰が大事かって聞かれたら、俺には咲月以上に大事な奴なんかいないよ。昔も、今も、そしてこれからも、俺は咲月が一番大切だ」
 咲月の瞳からこぼれた涙が頬を伝う。
 その涙を、直哉がそっと指先で拭った。
 他の誰かが言われたら舞い上がってしまうだろう台詞も、咲月にはつらいだけだった。手を伸ばせば簡単に触れられるほど近くにいるのに、直哉が遠い。いつか直哉の部屋で感じた透明なガラスの壁が、今この瞬間、またしても二人の間に立ちはだかっているかのように。
 切なさが込み上げる。咲月の欲しいものを直哉は決して与えてはくれない。それは昔から分かっていたことだった。それでも咲月は直哉を求めてしまう。失うことを恐れながら、欲しがる心を止められない。直哉が咲月を思う気持ちと、咲月が直哉を想う気持ちは決定的に違うのに……。
 と、その時。
 真っ直ぐに咲月を見つめていた直哉が、不意に視線を揺らして自嘲気味に口元を歪めた。
「だけど、今日彼女にあれも変だ、これも変だって言われているうちに、俺もだんだんそうかもしれないなって思えてきて……、気付いたんだ。咲月は、俺にとって咲月は、確かに大事な幼馴染みなんだけど、でも、それだけじゃないって」
 時間が、止まったのかと思った。
 大きく見開かれた咲月の瞳を避けるように、直哉は視線を下げて涙で濡れた咲月の頬に再び指を伸ばした。今度は頬を包む込むように手の平を添えて、親指でゆっくりと涙の跡を拭う。冷たい直哉の指が、何度も何度も咲月の頬を撫でた。
 愛しげなその仕草に、咲月の全身が甘く痺れた。
 目の前にいる直哉が全然知らない人のように思える。
 直哉。
 直哉。直哉。
 激しく打つ胸の鼓動がうるさくて。
 息ができない。
 頭の中がくらくらとして。
 身体が空中に霧散してしまいそうだ。
 それでも視線は絡め取られてしまったかのように直哉から離せない。
 咲月は直哉の一言一句をも聞き漏らすまいと、全身全霊を直哉に傾けた。
 直哉が伏せていたまぶたをゆっくりと上げる。意志の強さを感じさせる黒い瞳がはっきりと咲月の瞳を捉えた。

「俺は、咲月が好きだ」

 呆然と自分を見つめている咲月に、直哉はもう一度語りかけるように同じ言葉をささやいた。
「幼馴染みとしてだけじゃなく、一人の女の子としても、咲月が好きだよ」
 呼吸が止まった。
 息を呑んだまま固まった咲月は、ただ直哉の言葉だけを、頭の中で何度も何度も反芻する。
 最初、意味を成さない文字の羅列でしかなかった直哉の台詞が、徐々にまとまった単語となり、文節となり、最後にははっきりと意味を持った文章になる。
 咲月は小刻みに震えだした自分の身体を、両腕でぎゅっと抱きしめた。
 一度意味を持ってしまった言葉たちは激流のように咲月自身を翻弄したけれど、同時に、荒れ果てた大地にしみこむ清水(せいすい)のように、心の奥深くまでゆっくりと浸透していった。
「……う、そ」
「嘘じゃないよ」
 無意識にこぼれた咲月のつぶやきを即座に否定して、直哉はそっと、壊れ物のように優しく、咲月の震える身体を引き寄せた。
 何が起こったのか解らないまま、咲月はただ頬に当たる直哉のコートの冷たさをだけを感じていた。
 直哉がゆっくりと両腕に力を込めていくと、二人の間の隙間がどんどん狭まって、咲月が気付いた時には完全に抱きしめられる形になっていた。
 直哉の腕の中はあの日と ―― 咲月が初めて直哉を異性だと意識した日と ―― 同じ感触がした。
 きつく抱きしめられているのに息苦しさは感じず、むしろ咲月の身体からは波が引くように震えが消え去っていく。代わりに湧いてきたのは、傷ついた心を癒すような温かさだった。心の隅々まで行き渡った清水が、今度は泉となって静かに湧き出てくる。
「ずるい。……ずるいよ、直哉。どうして……、今更、そんなことを言うの?」
 けれど、咲月は直哉を抱きしめ返したい衝動を堪えて身をよじり、両方のこぶしで直哉の胸をドンドンと叩いた。直哉がわずかに腕の力を緩めた隙に、今叩いたばかりの場所に両手をついてぐいっと身を離す。
 そうしておいて、こつんと直哉の胸に額をぶつけた。
 悔しい、悔しい。嬉しくて、悔しい。
 嬉し過ぎて悔しいから、どうすれば良いのか分からない。
 咲月の瞳に溢れた涙が、街灯の明かりに反射してキラキラ光りながら落下していった。
「ごめん。でも、やっと自分の気持ちに気付いたんだ。それで、咲月を誰にも渡したくなくなった。―― 迷惑、だったよな?」
 いつの間にか咲月の髪を撫でていた直哉の手が、かすかに震えている。
 震える手で、愛しむように、何度も何度も咲月の髪を撫でる。
「バカッ! バカ直哉っ!!」
 堪えきれなくなって顔を上げると、目の前に迷子のように頼りなげな表情をした直哉がいた。
 愛しい、愛しい、幼馴染み。
「あたしは、ずっと……。高校の頃からずっと、直哉のことが………」
 ハッとしたように咲月を見つめた直哉の顔が、幼い頃のあどけない顔と重なって、咲月は思わず微笑んだ。
「ずっと、直哉が好きだったのに」
 その瞬間、咲月は再び凄い力で直哉に抱きしめられていた。
 溶けてしまいそうな幸福感。今度は咲月もぎゅっと直哉を抱きしめ返す。
「直哉、直哉、大好き」
「咲月」
 夢を見ているようだと思った。しあわせな夢を。
 けれども、咲月を抱きしめる直哉の腕の強さが、髪にかかる熱い息が、咲月の腕の中にある確かな存在が、すべては真実だと告げている。
 誰よりも欲しかった。そして、何よりも失いたくなかった、大切な存在。
 永遠の中にとけてしまいそうなこの一瞬に、咲月はもう一粒しあわせの涙をこぼした。



 どれくらいの時間そうやっていたのだろう。
 抱きしめる腕の力が緩められるのに合わせて身を離すと、やけに嬉しそうな顔をした直哉と目が合って、咲月は思わず視線をさ迷わせた。
 自分でも頬が紅潮しているのが分かって居たたまれない。
 けれど、いつまでも広場を見渡しているわけにはいかないことも分かっている。
 咲月は意を決して視線を直哉に戻そうとしたのだが、見上げた肩越しに思いがけない光景を見つけて、思わず直哉のコートの胸元を引っ張っていた。
「直哉、見て見て!」
「え?」
 言われるままに咲月の指差す方向を振り返った直哉が、訳が分からないという顔をして肩を竦める。
「ほらっ、あれ、あれ!」
 けれど、再度コートを引っ張られて、直哉は何かを思いついたように一歩だけ咲月の位置まで移動した。そしてゆっくりと膝を屈め、視線を咲月の目の高さに合わせる。
「ああ……」
 咲月の指差す先には、明かりを落とした大きなクリスマスツリーがあった。
 今は小さな電球がちらほらとしか点いていない淋しい姿だけれど、その梢の先に、空に輝く眩い星が光っていた。星明りで黒いシルエットになったツリーの頂上に、まるであつらえたようにぴったりとはまった、凍てつく空に輝く星。
「星が……、本物の星が光ってる。―― きれい」
「あれは、シリウスだな。空で一番明るい恒星(ほし)だよ」
 ひと際青く輝く星を見て、直哉も頬をほころばせた。
「それじゃ、これもきっとシリウスだね……」
 そう言いながら咲月は空を指している手をゆっくりと開いていく。
 街灯の明かりにきらりと輝く小さな星は、咲月の薬指にはめられたリングの飾り。
「きっと、空から降ってきたシリウスだね。……直哉、これ、ありがとう」
 空に向かって伸ばされたままの咲月の手を、直哉がそっと掴んだ。
 そのまま軽く引っ張り、咲月の身体をくるりと自分の方に向ける。けれど、今度は抱きすくめたりはしなかった。
 そのかわり、繋いでいるのと反対の手がそっと咲月の頬に添えられる。
 直哉は何も言わなかった。
 けれども優しい眼差しがすべてを語っていた。
 直哉の体温をすぐ近くに感じながら、咲月はゆっくりとまぶたを閉じた。



 しんと静まり返った冬の空。遥かな上空、空の高い高い場所を星が流れる。
 まるで祝福のように、長く尾を引いて降る純白の星。
 けれど……。
 しあわせな恋人たちの瞳に、その輝きが映ることはなかった。



 ―― ねぇ直哉、幼稚園の時も……だったよね?
 ―― それを言ったら、小学校の頃の……の方がさぁ
 ―― あたしたち、思い出だけはいっぱいあるよねぇ……
 ―― その台詞は咲月がもっと婆さんになってから、もう一度言ってもらいたいもんだね
 ―― え?

 ―― 今までの思い出よりも、これからできる思い出の方がずっと多いってこと



END




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